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書けないのは、インプットが足りないからだ

しばらく、文章が書けていない。

正確には、書きたい文章が書けていない。

もっと正確に言えば、書くことが目的になっている。

私は、書きたいから書いているわけではない。

もし、書くことが目的になっていたとしたら、書きたい文章が書けないのも無理はない。

なぜなら、書くだけならいくらでも書けるからだ。

「私はなんのために書くのか」ということについては、昨年考えた。

私は、「私たちは、自分の成長のために何を書くべきなのか」というイベントを主催した。

その名の通りであり、私は「成長」をひとつのキーワードとして捉えている。

自分の成長とは何なのか。

成長とは、売上なのか、実績があることなのか、仲間が増えることなのか。

人によって様々である。

そこで、私は自分の成長を「自分の思いを文章化できるか」に軸を置いてみた。

日々、過ぎ去ってしまう細かい描写。

朝、目覚めたとき。

鳥が鳴いているかもしれない。

陽が差しているかもしれない。

暑い、または寒いかもしれない。

眠たくて布団から出れないかもしれない。

そんな1シーンを、自分なりの言葉で、伝えられるかどうか。

例えば書いてみたとして、「なんかちがうんだよな」となるのであれば、成長が必要だ。

その描写を、しっくりくる言葉で書けたとき、私は成長を感じるのである。

すなわち、成長のために「書く」のである。

そして、何を書くべきなのかを考えることについても、その空間において何を感じているかということだ。

五感、または六感も使っているかもしれない。

確かに感じている何かを掴み、まずは自分の中に落とし込み、思考し、文章化する。

私は、つい先日まで、感じるがままに何かを文章化したいと思っていた。

感性をそのまま言葉にしたいと願っていたのだ。

一見、そうしているように見える人がまわりにいるからである。

しかしそれは違った。

そう見えるだけで、本人が気づかないほどのスピードで自分に落とし込み、思考し、文章化していると考えている。

完全に感じるがままに生きている人であれば、この世に生きること自体が困難だと思うし、私とまともに話すことも不可能である。

感じて、感じたことを自分に落とし込み、思考し、表現しているから、コミュニケーションが成り立っている。

つまり、「感性のままに」とは聞こえがいいけれど、文章化においては、私のような一般人と同じ流れで成り立っていると思っている。

そして、表現の中でも絵画や音楽は別ものであろう。ただし絵画や音楽については、ここでは掘り下げない。

つまるところ言葉は、思考がそのまま出る。

あやふやな言葉、借り物の言葉が並ぶ人は、要するに考えていない人だ。

「うまく言語化できないんだけど、こんな感じ」が口ぐせの人が、もしかするとまわりにいるかもしれない。

言葉は、普段何を考えて生きているかがそのまま出てしまう。

ところで、普段たくさんのことを考えていても、文章が書けないことがある。

私は、文章が書けるときの自分と、そうでないときの自分を1年を通じて観察した。

すると見えてきたのは、インプットが足りていないときには圧倒的に書けないということだ。

どういうわけか、村上春樹さん、星新一さんの小説を読んだときには、抑えられないほど文章が飛び出てきたのを覚えている。

そして、インプットと思い込んでいる本や出来事も、良質なアウトプットには繋がっていないこともわかっている。

既に知っていることを「ふむふむ」と読んだり誰かの話を聞いていても、書くことにおいてはまったく血肉になっていないのである。

それは、ただの「確認」だ。

「自分はそのことを知っている。よし」ということである。

これをインプットと言っていいのだろうか。

もしかすると、そのインプットと思われることをどこかで発信して、アウトプットと思われることをしている人もいるかもしれない。

既に知っていることを発信し、それを見て、知らない人は喜ぶのかもしれない。

ところが、知らなかった人は、またどこかで同じものを目にして、初めて知ったかのように思い込み、似たようなものを取り入れ続ける。

なんとなく、このままでは良質な文章を書けないことがわかるのではないだろうか。

もちろん、ここで言う良質な文章というのは、あくまで私が考える「成長」を基準にしたものだ。

とはいえ、自分の感じたことを文章にすることにおいて、成長したくない人などいないのではないかと思うので、わりとたくさんの人に当てはまるのではないかと考えている。

書きたいのであれば、より多くのことを学び、自分が感じたことを言葉にすることを繰り返すことがよさそうだ。

空っぽのままでは、当然ながら外に出ていくものも自分への踏み込みが浅く、力強さがなくなる。

何かに触れ、自分に取り入れ、混ざったものを作品として外に出す。

まだまだ、先は長そうである。







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