だって、精神的に未熟な人が子育てなんてできるわけない

子育てにつまづいたとしても、日々楽しく笑って過ごす人というのは、決まって精神的に自立している。

精神的な自立とは?

それは、誰かの幸せを願えることだと思う。

人は、生物学的に誰かと生きるようにできている。

物理的にもそうだし、精神的にも誰かに支えられたり支えたりして生きるようになっている。

つまり自立とは、これまで自分のことでいっぱいだったのが、誰かと繋がりを持つことと言える。

誰かと深い関係を結ばずに生きる人もいる。

何かしら深い理由がない限り、自立しない人は、誰かに甘えたままで暮らしてしまう。

ところで、誰かに甘えたままでいる人が結婚したり、子どもを授かったりする。

これはどういうことなのか、不思議に思う。

というのも、誰かを支えることができない状態でいるのに、誰かと生きようとするのである。

かなり自然の摂理に反した行動ではないだろうか。

なぜなら、自分のことでいっぱいである、あるいは誰かの助けがないと自分のことができない人であるなら、それはパートナーの人生の足を引っ張るだけだし、赤ちゃんがすくすく育とうとすることを阻害するからだ。

それで、パートナーと生きることや子育てを自分で選択したにも関わらず、逃げたり、文句を言ったり、ときには心身に対する暴力をふるったりする。

やっていることがめちゃくちゃだ。

自分に責任を持って生きている人間であれば、学生時代や社会人になって、自分がどういう人間であるかわかる。

おかしな部分がある人は、いつも同じパターンで人間関係をこじらせているはずだ。

いつも同じことが起きているのに、それを解決しようとしない。

頭で考えてダメなら心の専門家に相談すべきなのに、それもしない。

ただ「自分はダメなんだ」などと独り言を繰り返す。

そして、開き直り「自分はダメだから」と笑顔で人に伝える始末だ。

自分がダメであるのに笑顔になるという、心と行動の矛盾に気づいている人がどれぐらいいるだろうか。

ダメでいたくないはずだ。

正直になろう。

笑顔は、心が笑って初めて笑顔なのである。

嫌われないように笑顔になったり、心配させないように笑顔になることは自分を苦しめる。

たとえば会社や店の窓口に立つ人の笑顔は、「相手に気持ちよく話してもらう」という前提がある。

相手に初めから寄り添うものだ。

戦後の上を向いて歩こうと笑顔になるのと、レベルがちがう。

戦後は、みんなが笑顔で頑張ろうとしたからこそ、心から笑えるようになった。

平和な毎日を暮らす私たちは、そのことに感謝しつつ、心からの笑顔でいいのだ。

子どもの笑顔を奪う人たちがいる。

子どもをトイレに置き去りにしたり、ベランダから落としたり、家や車で放置して殺す人がいる。

なぜ、そこまでするのかは子育てをしたことのある人しかわからないと思う。

通常で考えられるストレスコントロールの一線を予測がつかないほどに踏み越えてくるのが赤ちゃんだ。

会社で、もっとも避けたい上司やクライアントがいることを想像してほしい。

そういう人と一緒に暮らし、その人のワガママにずっと付き合わなくてはならない。

しかも、世間的に「あなたがその道を選んだんだから、きちんと世話しなさいよ」という目がある状態だ。

なんという地獄だろうか。

そんな状態で、錯乱してしまった人が取る行動が、自殺や他殺なのである。

産後うつという言葉があるが、それも当たり前のものとして受け取らなくてはいけない。

ただ、私は不安になってしまう人たちを厳しく突き放したくてこのような文を書いているのではない。

せめて、精神的に参ってしまう前に、自立しようという話だ。

自分のことすらうまくできない人が、子育てもする?

それはパートナーにも子どもにも大変失礼であるし、甘えにもほどがある。

不器用とか劣っている点があったとしても、精神的に自立しているかどうかは、生活していればすぐわかる。

子どものままでいる人は、あくまで自分が中心なのである。

そして時代の流れに乗ったフリをして、「自分を生きる」などと言い出すのだ。

意味を歪ませないでほしい。

それはただのワガママである。

自分を生きる人は、やることをやった上で自分を中心に生きるのである。

表面的にはとてもワガママに見えたり、社会とうまくやれない人として映る。

しかし仲間たちはその人がとても優しいことを知っている。

子どもであればなおさらである。

何度でも言おう。

精神的に自立していない人が、結婚や子育てに救いを求めるのはかなりつらい。

お互いにつらい。

自分は寄りかからなくては生きられなくなる。

家族は、最初はよくてもずっと続くはずがない。

家族も人間だ。参ってしまったとき、誰に救いを求めたらいいのか。

自分がしっかりしなくてはと思うパートナーであれば、なおさら、相手を助けられない自分を攻めるであろう。

そんな悲劇があってたまるか、と思う。

本来は甘えている人間を助ける神様のような人なのに、自分を攻めて精神を崩壊させてしまったとしたらどうだろう?

子どもがいる夫婦であれば、子どもはどうなる?

パートナー同士で解決できない場合の火の粉は、必ず子どもに降りかかる。

直接そのストレスをぶつける場合もあれば、間接的に、たとえばごはんを作らない、会話がない、教育しない、などだ。

なんでもいい。

とにかくこれから社会に出ようとする小さな芽をつぶす行動をする。

パートナーと子どもをつぶすために結婚するということがどれだけ残酷か認識はあるだろうか。

破局、離婚、崩壊、それらに偶然なんてない。

結婚する前から決まっているのだ。

自分の未熟さに気づいていないか、気づいていても過度な期待で自分は変われると思っている。

誰かに変えてもらおうとするのはやめよう。

まず必要なのは、自分との対話だ。

自分を観察し続ける。

自分という人間を認める。

生きやすさを見つける。

自分ができる範囲を見つける。

その貢献の範囲に満足できる人をパートナーに選ぶ。

お互いに過度な期待はない。

自分の扱い方を理解しているからこそ、相手にも自分の取り扱い方を話せる。

話し合えるということは、発展できる。

その発展は、いつのまにか理想の家庭を築いているだろう。

自分でも気づかないうちに。

そんな夫婦の心地よい空気は、子どもに伝わる。

子育ては、在りかた。

自分たちができることなんてたかが知れてる。

すくすく育ちやすい環境だけ用意してあげたらいい。

せめて邪魔しないようにするために、夫婦がどうしたらずっと楽しく生きられるかを考えていればいい。

お互いの自立、支えあいの土台に、子どもは安心するのである。

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