『思考を耕すノートのつくり方』と私が手帳を続ける理由


『思考を耕すノートのつくり方』を読む。
手帳を卒業しようか悩んでいたが、この本を読んで続けることにした。

手帳を続ける理由は、行動記録と気づきが主であった。
しかし今はnoteでそれを書いていて、ノートやiPhoneメモにも都度書いている。
別のもので機能を果たせるのに手帳をまだ使う理由を問うと、「気分を高揚させるから」という答えがあった。気分を上げるツールはそれが生産性や効率に繋がってなかったとしても十分な価値と感じていた。

これまでは「気分を高揚させるから」が、私を納得させる唯一の理由であった。
が、今年はそれすら失われつつあった。
noteに日記を残し始めた下半期に至っては、唯一生き残ったページは月を振り返るために用意されたフォーマットのみで、それ以外は書くことがなくなっていた。

慣性の法則や認知的不協和を利用することも考えた。
「せっかく続けてきたのだから、これからも継続しよう」である。
しかしその理由は「5年続けた結果、次の年は別の手段でも満たせる自分になったのではないか?」と言う自分に打ち消された。

要は、手帳を続けようか悩んだ。
私は手帳が好きである。
好きであるが、前ほどのときめきがない。
そのことが私の手帳生活を脅かしている。
手帳に何度も助けられたし、年の振り返りに手帳が大いに役立つことはわかっている。
手放した後の自分が、これまでと同様に振り返ることができるか、恐れがあったかもしれない。

『思考を耕すノートのつくり方』のコラムに、ミニノートに関する記述がある。その一部の内容が私の複雑な心境を一気に整えたのである。

そもそも過去の思想家たちのメモ書きだって、何かを思い出すために読まれるのではなく、「このときこの人は何を考えていたのだろう」と考えるために読まれるでしょう。それと同じ読み方が自分のメモにだって可能なのです。書いたときの自分と違った解釈だって構わないではないですか。今の自分が何かを考えるきっかけになればメモとしても本望でしょう。

Column2 ミニノートと共に生きる


今の自分が何かを考えるきっかけとして、手帳が在ってはどうだろうか?

「このときこの人は何を考えていたか」を知る手がかりとして手帳が在ってはどうだろうか?

そのように考えたのである。

稲妻が走るとはこのことだ。
著者には感謝しかない。

同時に、私がいかに手帳に思い入れをしているかがわかった。Evernote愛好家がなかなかEvernoteを手放せないように、私もまた、手帳が好きゆえに手放せないでいた。続ける正当な理由を探し続けた。正直、疲れた。脳には大変申し訳ない。

私に手帳を続ける理由をくれた『思考を耕すノートのつくり方』は、まさにノートを書く理由を授けてくれる唯一の本と思っている。

私もノート研究者の端くれであるがゆえ、書かれていた内容は知っているものばかりであった。

ただ、「知っている」と思っていることを串刺しにし、何かの点と繋げてくれる力がこの本にはある。私の思考は大いに耕されてしまった。

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