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掌編小説『いつか、何処かの、誰かの、何か』

 なんだそんなところにいたのか。 "彼"を見つけた途端、思わず声をかけてしまいそうになった。空っぽの私の一部を、いや私の中身丸ごとを見つけたような、そんな感覚に陥った。
 分譲マンションの一角。
 花壇とも云えない小さなスペースに彼はまるっと鎮座していた。彼を取り囲む植物の種類はわからないが、 青々と育っている様子は彼から溢れ出たエネルギーを蓄えているように思えた。
 私には無い何かのパワーだ。急がなくてはいけない筈なのに彼の姿から目を離せないでいる。このまま通 り過ぎてしまえば彼とは一生涯会えなくなる。そんな不安が胸に湧き、足を地面に縛りつけた。
 立ち止まる私の横を一人また一人と通り過ぎていく。
 彼ら彼女らは何とも思わないのだろうか。それとも彼が見えているのは私だけで、そもそも"私"という中 身を無くしているのも私だけなのだろうか。
 指先で彼を押すと、確かな弾力が指を押し返した。彼がそこに確かにいることがわかり、私の中身はまだ この世界に存在するのだと少し安心した。
  通り過ぎる人々は一点を凝視する私を変人だと思うだろうか。それでいい気もした。
 寧ろ、変人という称号を得ることによって、私自身を“中身のある人間”と思わせたかった。そうでなけ れば、私はまた同じように中身の無い一日を始めるに違いなかった。私が急いでこの場から離れなければな らない理由なんか、そんなどうでもいい一日を作るためだけでしかないのに。
 ふいに携帯電話のバイブレーションが心臓を叩いた。
 点滅するネオングリーンのライトが“中身の無い一日”の開始を急かしていた。彼の照りのある青さが目 に焼き付いたせいか、見慣れた筈のいつもの色が酷く濁って見えた。
 別れ際、もう一度彼を押してみる。 もにゅっとはじき返す彼の仕草は手を振ってくれているように思えた。

 一日中、彼の姿が忘れられなかった。
  いつもはただ焦燥感に駆られ現場を転々とするだけの街中で見る信号機が、クリニックの看板が、胸元の ボールペンが、青い彼を連想させた。
 『心ここにあらず』という言葉があるが、その逆だ。 『心ここにありなん』と。
 終電の車窓に流される私の顔も疲れてはいない。何と表現すれば良いのか。”満ちている”のだ。
 最寄り駅に降りると、ぐぅと駆けだしたくなった。ホームの椅子に寝そべるジェントルマンを横目に改札 をくぐり抜け、エレベーターを待っているレディを追い越し、一段飛ばしで階段を駆け上がる。 登り切ったその先には何も無い。が、今日の”あの場所”にはきっと彼がいるだろう。暗闇を明るい丸でく り抜く街灯にエスコートをされながら彼までの道を急いだ。

  分譲マンションの一角。
  花壇とも云えない小さなスペースに彼は居なかった。
  酷く残念な気がしたが、すぐにそれが当たり前だとも思った。
  今朝私が彼を見つけ、一日を過ごす中で彼を消化したように、また何処かの、誰かが彼を見つけ、そして 同じように消化し、自分へと還したのだ。“還った”人に、もう彼は必要ないのだろう。
 何もないスペースに人差し指を寄せるが、指は止まることを知らずに空を切った。その様子を確かめると 私は帰路を歩き出した。
 明日の私は何をするのだろう。
  たまの休みだが寝てばかりはつまらない、少し遠出でもしてみようか。とりとめない自問自答が頭を巡っ た。
 そんなとりとめない意識が、私を”今日”に留める。

 そうして私は、明日を生きる。


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