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心の弱さに名前をつける

朝(昼?)の目覚めは頭痛とともに。
いつも最悪だけど、夕方には落ち着いた気持ちになる。
一つ記事を書くたびに、何か一つ仕事を終わらせたような感覚になる。
「何もなかった一日」にしないための手段のようである。



臆病な自尊心、尊大な羞恥心

今年、転勤してからよくこの有名なフレーズが頭に浮かんでいた。

何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍(ご)することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己(おのれ)の珠(たま)に非(あらざ)ることを惧(おそれ)るが故に、敢(あえ)て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

中島敦「山月記」

「こうなりたい」と願う時、それでも心が怖気付いて体が動かない時、めちゃくちゃ李徴のことを思い出す。李徴レベルと比べちゃ失礼と思いながら、いてくれてありがとう、李徴。とも思う。
誰かに教えを乞う時、授業のやり方を見させていただく時、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を飼い慣らしていると思いながら、どこかでただ「ふり」をしているだけなのではと思う。
頑張っている「ふり」、ひたむきな「ふり」、気持ちを飼い慣らしている「ふり」。何をしていても不確かで存在が危うい感覚。

新しい場所で、
自分の無知や至らなさを晒すことが恥ずかしくて、消えたいと思う気持ちと、
意外とやってきたし実力や魅力もあるんだぞ、
という気持ちが天秤を揺らす。

私が負けたものはなんだろう。
誰かに「それでいいんだよ」と言って欲しいがための「甘えた懐疑心」とかかな。
私は李徴のように優秀ではないから、普通に「臆病な羞恥心」なのかもしれない。

これらはどんな姿をしているのだろう。
虎よりも湿っていて、陰湿で卑怯な感じがする。蝙蝠とか、ハイエナとか、蛇とか?
虎だったら一緒にいたいけど、この3つは一緒にいたくない。
でも、心の弱さなんてそんなものなんだろう。向き合いたくないものなのだろう。

文学作品は読者の教訓となるものではなくて、そこにあるもの、作者が魅入るものを描くから美しい。

今日も落ち込むし答えは出ないけれど、人間のまま生きている。


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