「僕には個性が無いから」という個性


僕は最近、いい年齢になったことと、すこし社会経験を通して感じたことがある。

「なんだか僕、社会の歯車の一つになったみたいだ」

よく風呂場で思った。

それが良い、悪いはまず、置いておいて、僕はなんだかそれを「もやもや」していた。



僕には個性が無い、と思って生きてきた。

絵の上手い友人がそばにいたし、身体能力の高い友人もいた。顔がモデル並みに可愛い子もいた。お笑い芸人になれそうなほど面白い人もいた。そんな中で僕は、「変わった子」だけが僕の個性だった。

秀でた能力もなく、ただ、変わった子。僕にとってはそれしかないから、変わった子でいることが嬉しい時もあった。個性が無いんだもの、「変わった子」であっても、僕にだけしかないものは、何もない僕の中で優越感になった。


ここからどんどん正直にいこう。

僕は中学になった時、本当に精神を病み始めた。

幻聴が聞こえ、どうしようもない気分の浮き沈みが出始めた。とあるきっかけから精神科に通い始めたが、僕は内心で精神を病んでることに喜びみたいなものを、当時は思っていた。

なぜならいつも怒る母が、病院に連れて行ってくれるときだけ優しくなったからだ。帰りにはサーティーワンの高いアイスを「いいよ」って、何を食べてもいいと怒らずに食べさせてくれた。

今思えばわかることだが、この時の母は可哀想な子だと思っていたのではないだろうか。ある意味、その精神を病んでいるのは母のせいもあるのに、母は何もできないと思い、物で母自身の持つ罪悪感を昇華してたのではないだろうか。なんて、思い返してみたり。

でも、当時の僕は、ただただ、アイスがもらえる喜びと優しい母。個性のない僕になにかあるんだ、と思えていた。当時は、だ。

当時は病気があることが、嬉しかった。

そう、かまってちゃんだったのだ。

病気になりたくてなったわけではなかったが、転がり込んだ何もない僕への、それ。

平日に学校を休んで、連れて行ってもらえる特別感。優越感になっていた。



しかし、社会に出てからは地獄である。ひどい親でもあったが、なんだかんだで成人になるまで殺さなかった。(精神は死んだが。)なんだかんだで、ここまで育て、社会に送り出してくれた。僕は親が毒親だと知っているし、された仕打ちも忘れられない。フラッシュバックで泣くこともある。でも、恨みは奥にしまっておいて、コントロールできる。恨みは掘り返せばたくさん出てくる。でも、恨んだからって、何かが解決するわけではないことを僕は知っている。

だから、生かしてくれていただけでも、僕は親には感謝している。

話を戻そう、社会に出れば、

「〇〇歳なんだからさー」とか「上司差し置いて休むの!?はあ!?」とか。「学生じゃないだから」とか。

社会人として、を求められる。

気分が落ち込んでダメです無理です休みます、が続けば「じゃあもう明日から来なくていいよ」

が、当然の社会だ。

病気を持ってて嬉しい、なんて、学生の頃だから思えた話だった。今は一切ない。むしろなくていい、普通になりたい、と時々切望している。守られていた、と痛感した。その部分も、クソな親でも感謝してるところでもある。


そんな社会で、色々得てきた。

何もない僕でも、なんだかんだで少しずつ技術を身につけた。僕にしかできないことを少しずつ積み上げてきている。薬を飲んで、運動をして、サプリメントをのんで、よく寝て…

前より会社を休まなくなった。

定期的にくる鬱と、共存し始めれるようになってきた。


そうすると、僕はなぜか普通に近づいてきているような、焦りがあったのだ。僕は普通を切望する時と、自分が、普通じゃないことに喜びを思う時がある。でも僕は社会に出て、せめて病気が無くていいと願っていた。特に躁鬱。そこだけでも普通でありたいと思っていた。でも、そんな気持ちのどこかで、「何もないはずの僕にあった、唯一の個性みたいな、病気」がいなくなるような不安感を感じていたのだ。

変わった自分にある、誰もわかんないでしょ、ふん。みたいな部分。

それが無くなる不安がきっと、

「社会の歯車の一つになったみたいだ」

なのかもしれない。


普通を求めて、求められて。いざ、普通だね、とか普通になったということに直面できない、僕の弱さ。

個性が無いことが恐ろしいと思う、僕の弱さ。なにもない、で埋もれてしまうんじゃないか、と怯えている自分。

尖っている部分がまるで丸くなるような、感じ。

それがないと、誰も僕をかまってくれなくなるんじゃないか、……


しかし、当然ながらトゲのない方がいろんな人から、接しやすくなるものなのだ。僕はよく、ちょっと前まで普通になりたいのに普通は嫌で、よく普通なものを見下していた。

こんな普通でどこにもあるようなもの、なんで売れんの?とか毒を吐いていた。……恥ずかしい。


いやいや、今思えばどこにでもあるから売れるのだ。その中にある、作り手の個性がちらりと見えるから素敵なのだ。

個性なんて、なくていいのだ。

無くしたくても、無いと思ってもあるから、無理にあってもくどかったりえぐみになったり、好き嫌いわかれるだけになるのだ。極めていれば一芸だが、中途半端ではアク抜きなされてないナスを食べるようなものだ。

「なーんかしまらない、味。」



ある意味、僕は個性にも執着していた。無い無いと、なにも無い自分を恥じてなんとかしたかった。いろいろ身につけているうちに、僕自身をちゃんと見れるようになってきた。僕にも、えぐくて扱いづらい個性はしっかりとあった。あとはアク抜きして、みんなに美味しいって言ってもらえるようにするのも、「優しさ」なのだ。

ちらりと見える個性まで抑えている、粋。誰でも手にとりやすいところまで個性を消す優しさ。自分を差し置いて、商品を活かすというプライド。

それがプロの技なんだろう。



とある知り合いに、自称サイコパスがいる。

「俺サイコパスなんだよねー」

本当のサイコパスが、サイコパスというわけがない。

そのように、個性も自分でしっかり把握できるものではないのではないだろうか。自覚して、ちょっと使い勝手のいいものなんて、個性なんかではない。

なにもなくてよかったのだ。

僕はただ生きてるだけでよいと、親に言ってもらいたかった。そうすれば無理に個性をつくろうとしなかっただろう。

なにもない僕にも、たしかに僕にしかできないことがあった。風呂場で思う、歯車の一つ。みんなの中でまぎれてただ生き、ただ死ぬ怖さ。突き抜けられない自分の天井を知ったような、諦めのような。

でも、歯車の一つでなければ、誰かとは繋がれない。誰かの歯車を回せない。誰かの役に立てない。


突き抜けた1人より、誰かの役に立つ凡人でいいと、思えた水曜日。今日の風呂は入浴剤を入れてゆっくり入ろう。




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