フォロワーの数について、ついに、やっと、「本当に」どうでもよくなった

と、タイトルで書いたけど。もちろん、メンタルによってはショックを受ける時もある。これはフィジカル・メンタルの問題として受け止めるしかない。

ずーっと数字を気にし続けてた

僕は何度もnoteに書いてるように、フォロワー数やいいねの数で悩みまくってた。何度も自分に、それは評価じゃない。とか、自分の点数じゃない、社会の影響力の数…などなど、慰めてきた。

事実、その度に「すこしは気にしなくなった」と安堵するものの、メンタルが弱れば当然ショックを受けて、メンタル弱ってなくてもショックを受けて、

それなのにSNSをやめられない、ほぼ依存症を続けてきた。

というのも、やはり、SNSの「点数」、「評価」が自分の支え、自己肯定感だったんだと思う。

だから、フォロワーが増えて減って、僕も一喜一憂。
他人による幸福」で、僕は感情を揺らし続けてたのだ。

何度も何度もnoteにこんな記事を書いて、やっぱり気になる数字。ずーっと、繰り返してきた。怒り、悲しみ、喜び。

今の僕はそんな僕に「バカだね」と笑える。

顔も知らない他人に揺さぶられてどうするの?

まず、僕は自己肯定感が低い。とんでもなく。だから、他人からの評価で生きてしまう。褒められれば僕は良い子なんだと、肯定でき、怒られれば僕はダメな子だと、がっかりする。

ねえ?これって犬だよね。と。

「誰か」に感情揺さぶられて、その度に悲しみ、自分を傷つけて、
バカじゃないの!?

スタバだったと思う。コーヒーを飲んでて、僕はTwitterを開いて、フォロワー数が減っててがっかりした記憶がある。その後に、込み上げるように怒りがやってきたのだ。上記にかいた文章通りの言葉がやってきて、僕を怒ったというか、叩いたに近い。

ねえ!僕!いいかげんにして!

と、キレた僕がいた。ショックを受けてる僕に、キレた僕。そこには二人の僕がいた。スマホを握りながら、僕は呆然とした。

顔も知らない、知らない人に奴隷になって、頭を垂れてどぎまぎして、ひとつひとつにびくびくして、
わからない人の顔色伺える!?

画面の奥にみえる!?

その人の人格知ってるの?好みも?今まで僕が親や家族に「いい子」してきたように振る舞って、知らない人にとっての「いい子」と同じだと思う?!正解だと思う?!

僕の親や家族への「気遣い」は、怒鳴られて何度も嫌な思いをして形成されたものだ。そんなものが、画面の奥にいる、誰だかもわからない人に通用するのか!?

(…このことがあったのは結構前なので、同じ記事を書いてる可能性もあります。)

こっちが本当に悪いことをしたのか?

それから、フォロワーが減るたびに僕は自分の言動がダメだったんだ、と自分を責めていた。

でもそれ、本当に僕が悪いのか?

僕の言動は、たしかに一般人とは異なるだろう。でも、それを許容できない人の方が正直、世界狭くない?
いろんな人がいる、多様性、だとかいろんなことをいろんな人が言ってるけど、本当にできてる人なんて少ないよね。僕も含めて。僕だってメンヘラな自分を許容できてないし。

僕が好きに発する。誰かが不快になる。でもそれは、本当に本当に僕が悪いのか?

不快にすることって、本当に悪いことなのか?
もちろん、これは僕にも問いかけてる。

たとえば前書いた記事のメンヘラA子ちゃんのように、僕のように、他人を不快にする人がいる。でも、僕はそこから学ぼうと思えた。自分も他人のこと言えないから、気をつけようと学習した。

それが僕の結果になってないとしても、「そうか」と納得はしてるのだ。自分はどうなのか、と振り返ってるのだ。

むしろ、例えば僕の言動に腹を立てた、フォローを外した、「なにあいつー」とか悪口を言って、僕を排他する。何も学べてないし、僕の言動をするような人を、理解できないままの人間になってるのだ、その人は。
改めて書く。世界狭くない?

そんな人からフォローされてて僕は幸せか?絶対幸せではない。逐一言動見張られて、どこかで悪口を言われ続けるより、よっぽど勝手に見限って、世界狭くしてる人とご縁が切れてハッピー!

フォロワーはたしかに、評価かもしれない。社会への影響力で、実力みたいな数で、点数かもしれない。

でも、本当に?本当にそのフォロワーたちはみんな、その人のことが好きなのかな?

そう思うと、僕は僕のことをちゃんと見て、「いいね!」って本心からしてくれる人がいる、数がいい。

勝手に期待して、勝手に落胆していく他人なんか、こっちから願い下げ。僕は僕。あんたに僕のことなんか、カンケーない。だから、こっちだって、カンケーない!

だからなに?

僕だって人間だ。もちろん、画面の奥にいる人も。そして、こうやって数字で測られて、数字で比べられて。数がおおけりゃ良いもんになって、少なければそれなり。
でも、それは実力でもあると、僕は理解できた。

数があることには理由がある。ないことにも。でも、そんな数に振り回されてまで、

僕を縛るものって、なに?

ずーっと親に、家族に縛られてきた。
社会に、「言動がおかしい」縛られてきた。

そこから僕が形成されて、他人の顔色を窺っては、ビクビクする僕が生まれた。他人が怖くて、人が大嫌い。それは今だって継続中だ。

でも、でも、僕を縛ってきたものたちに、また僕は縛られて生きるのか?!

社会的な評価で?数で?みんながいい!って声を揃えた量産型ないいもので?みんなのいいは理由があったとしても、

僕の良いは!?どこに許されるの!?許すのって、
僕じゃないの!?

いいじゃん!いいねが1?だからなに?

だから!なに?!

それで?
本当にみんなが良いって、いいねが一万二万ないと、良いものじゃないの?ほんと?ほんとうなの?じゃあ一万いいねがついた絵とか、売ってみ?

どのくらいの人が買うの?
本当にお金出すの?

僕に言ってるんだけどさ、

じゃーいいねが対してつかなくても、
「そのイラストで泣きました」
「買います」

って言ってくれた人たちにどう頭下げんの?

本当にありがとうって、言えた?言ったの?本当の意味で?こんないいねだ、フォロワー数だで喚く僕が、
本当の意味で応援してくれる人のことを考えてたのかって!聞いてんだ!僕よ!!!

だから、なに?

なんだよ。応援してくれる人は少ないかもしれない。でも、そんな僕でいいから、応援してくれてんだよ。そのままでいいから、そんな絵でいいから、これでいいから、
応援してんだよ。その人たち差し置いて、フォロワーだ?いいねの数だ?狼狽えて、僕はなにしてんの。

ちゃんと、見ろよ。みて、本気になって、描け。描くしかないんだよ。本当の評価は、後からついてくるんだよ、簡単にホイホイ手に入るものは、簡単に無くなるんだよ!!!!

僕は僕で、いいんだよ。だから、好きにしろ!縛られないで、進んでいけ!減っても増えても、僕がやることには変わりはない!描くだけなんだ!

やることは描くだけ

「自分のことで悩むより、作品で悩め」って文章を見かけたのは、躁鬱人?の坂本さん…(間違ってたらごめんなさい)だったか。

それを理解したんだと思う。やっと。やっと、僕は絵描きになったんだと思う。本当の。

今までの僕は、赤子だ。幼稚園児。描いた作品を褒めてくれないと駄々捏ねて泣いてるレベル。そんなの、絵描きじゃない。ただの承認欲求を満たすために「おえかき」を道具にしてるだけだ。

道具にするのはやめたんだ。自分で戦うと、覚えたんだ。

だから、メンタルの不調とかで「あーショック受けた」って時々はなると思うけど、
それでも切り替えて進める力が、今の僕にあると思う。

進め!僕!たのしく絵を描いて、たのしくすごせ!

そこに数字なんて関係ないんだから!


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