与える人となる

僕は常に「奪われる恐怖」というものと生きてきた。常に不安が強く、恐怖も感じやすい。繊細と書けばわかりやすいだろうが、繊細で片付けられても困ると思うし、僕は「自分が繊細だ」と自分で語ってしまう図太さが嫌いだ。

だからなるべく自分は繊細である、とは言いたくないのだが、他人に僕の有り様を伝えるときには便利だと思う。常に恐怖が隣にあるというのはビクビクしてるから、とまで書いて、繊細ではなく臆病と書くべきか、なんてここで思いつつ。

そうだ、僕は臆病なのだ。

そんな、臆病で、奪われる恐怖を常に傍に持つ僕は、「与える人になる」。そうなりたいと思った経緯と、最近の僕の成長について書いておきたいと思う。

「奪われる感覚」=被害者意識

僕は以前、自分の被害者意識の強さを自覚した記事を書いた。奪われる感覚というのは、被害者意識の塊なのだろうと、今は客観視できる。

僕はとにかく毎日、「奪われてしまう!!」という恐怖・焦燥感・不安でいっぱいいっぱいで、毎日が苦痛だった。何度もnoteに書いているが、僕は盛大なる過干渉と、本当に欲しい援助にはネグレクトなあべこべな家庭で育った。

僕ができること、したいことには全て手出し・口出しし自分の意思は尊重されなかった。その反面、僕が発達障害や躁鬱で出来ないことにたいしては、「やる気がない」「根性がない」と責め立て時には暴力の意味で手を出してきた。

そんな家庭で育ってきたのもあるし、僕は常に他人と比べられてきた。「〇〇ちゃんはかわいい」「〇〇ちゃんは絵が上手い」家族はただ事実を述べただけだろうが、僕が受け取ったメッセージは「それに比べてあなたは何も無い」である。

僕の認知が悪かったのかな。僕が育てにくい子供で親がそうならざるを得なかったのかな。そう思いながらも、今は家族をコントロールしたいとは思わない。いまは家族のやってきたことに対してプラス・マイナスの感情も一切感じていない。

僕も家族に対して、「僕の理想」を押し付けることは、家族とやることが変わらないからだ。だから、こうやって事実を改めて書いたけど、いまはもうその事実に対して悲しい過去だったとしか思ってない。許してないけど、もういいよ、みたいな感覚だ。だから、こうなった僕の経緯として改めて書いただけである。

そんなこんなで、こんな環境で育つと、自分のやりたいことは絶対自分では実現できないという自信が無く、やりたいことなどを「奪われないように」隠すようになり、自分は自分で挑戦・失敗したことがないので経験値が浅く、自分の力量を自分で知らない、知ることがないので自分自身の保身のためや、自分に対して無知であるが故に他人のせいにばかりする人間の出来上がりだ。

だから、常に「被害者意識」で生きてきた。

誰かのせいにすれば楽だった。被害者でいれば楽だった。


与える人になりたいと思った

そんな自分がなぜ、「与える人になりたい」と思ったかというと、

毎日毎日の「奪われる感覚」が辛すぎること。何をやっても根本がメンヘラなので地獄にいるようにいつも辛いのだ。それから解放されたかった。もうこんな辛い思いをしている自分が嫌だった。これから先も他人のせいにして他人を見下して、他人中心でこれからも他人のことばかり気にして生きるのか。そう思うと激しい自己嫌悪に苛まれた。

変わりたいと強く思ったのだ。しかし現実はそうはいかない。変わりたくてもなかなか自分の染み付いた認知は変わらず、いつも辛かった。noteに喚き散らしていた通り、変わりたい、自分のままでありたいと言いながら、全然前に進めない。

他人のせいにして楽って、書いているが、他人のせいにしているからいつも辛いのである。

他人の一挙一動がいつも気に食わず、自分を害するようにしか感じない。「被害者意識」とあるように、いつも感覚が被害者なのだ。だから常に他人に振り回され、いつもいつも針の筵の上にいるように辛くて辛くてたまらない。だからさらに他人のせいにする、そしてまた他人の行動が気になる。他人は他人で自分の人生を謳歌している。輝いている。その輝きで勝手に焼かれて泣き喚く。

一番なりたくない人間になってしまったと思った。

奪われることばかり気にして、ビクビクと常に怯えて。

だから気持ちのまま検索した。そうしたらこの記事に出会ったのだ。

読んだ後にはしっくりこなかった。

でもじわじわと僕に染みていくなにかは感じていた。

「僕が与える人になれるわけがないじゃん」以前だったらこの記事を読んでもそれだけだったと思う。

でも今回はなにかが違う。なにか僕にじわじわときている。

自己肯定感は自分でも思っている以上に育っていた

上記でも書いたが、おそらく以前の僕が先ほどリンク貼った記事を読んでも、「は?僕は被害者なんですけど」と何も感じなかったと思う。

以前僕は自分の絵がパクられたことにも激しく怒り、おそらくその怒りをなんとかしたくて検索した結果にも怒っていた気がする。

たしかその時もお坊さんの答えとして「真似する人には与えたと思いましょう」みたいなこともあった気がするからだ。その時の僕は「は???与えてなんかいないよ!」と強く感じた気がする。

というのも、被害者意識が強いこともだが、「自己肯定感が無い故に、自分がなにかを与えられる存在だと一ミリも感じてないから」だと思う。

つまり、「与える存在になろう」と思えたということは、「自分も何か与えられる存在だ」と自己肯定感がそれなりに無いと思えないことなんだ思う。

そのくらいは自己肯定感が育ったのだ。よく頑張ったなあ、僕。と思った。


あの記事を読んだ後。じわじわと染みて、ふと思い返したのはパクられたという過去だ。その時はもうパクられたことについて怒っては無かったが、まだなにか根っこみたいなものは残っていた。被害者意識だろう。

「パクられた過去は、与えたと思おう」

そう思った瞬間、すとんとなにかが落ちた。楽になり、涙が出た。そうだ、今まで僕が被害者だと喚いてきたことすべて、僕が与えたことだと思おう、と。

お坊さんの言葉は身に染みなかったのに、不思議だった。

パクリだって、僕はその人から敬意を感じられなくてとても怒り狂ってしまった。でも、敬意だって人それぞれだし、僕だって好きな人にあえて、嫌われたく無いからそばに寄らないようにすることだってある。それに嫌いな人をパクろうとは思わないし、敬意だ、好きだ嫌いだ、僕にはある意味関係ない。僕が絵を楽しんで描くことと、それを奪う奪われることは関係がないんだ、と。

というのも、僕はジワジワと最近、作品のことで悩もう、僕自身の悩みで身を焦すほど僕の人生は長く無い。そう切り替えるように常に考えていた。

その常に考えていたベースに、上手いことはまってくれたのが、「与える人になる」だと思う。


自己肯定感を得るためになにをしてきたのか振り返る

じゃあ自己肯定感をどうやって得てきたのか、それを振り返ってみる。

僕的にそこまで、自己肯定感を得たぞ!という確証も確信もない。ただ、「与える人になろう」そう考えた時、そう考えられるほどには自己肯定感があるんだな、と思えた。

自己肯定感とは、激しい自己愛とは全くの別物だということは理解してきている。

ただ、ここにあることを自分が許している。このままでいる自分はこれでいいと思える。諦めに近いのかもしれない。たしかに、僕はことあるごとに、

「これでいいのだ」と

某漫画のセリフのようなことを思ってきた気がする。

人よりできることは少ないが、これでいい。

あの子のようにかわいくもかっこよくもないが、これでいい。

あの人よりも絵は下手だが、これでいい。

背伸びして、虚勢はって、「僕はもっとすごい人なんだぞ!!!!」といままで中身空っぽのまま、膨れさせたプライドで演じて生きてきた。

求められた姿になりたくて。

僕は褒められたかった。認められたかった。賞賛されたかった。誰かをコントロールしたかった。思い通りにしたかった。

でも、それは出来ないことなんだと頭の根っこの根っこから理解した。僕は、僕なんだ、と。僕は僕で、僕にしか出来ないことがあって、僕には出来ないことがあるということ。

社会の歯車になったようだ、と書いた記事があるが、それに似ている。僕は僕の形をした歯車。僕にしか回せない歯車があるし、僕には回せない歯車がある。

それに関して、自分すごいとも思わないけど、自分は最低だも思わない。

これが、自己肯定感なのだと思う。

ひどく落ち着き、凪いだ海を見ているような。ゆるい風が吹き、頬を撫でる。真っ青な激しい晴れでもなく、しとしと降り続く雨でも無い。

どこにでもあるような、ゆるく雲もあり、ゆるく晴れている光景。

「これでいい」


嫉妬とも折り合いをつけれるようになった

おそらく自己肯定感とは

「僕は僕」「あなたはあなた」

がしっかりできることを指すのかもしれない、とも思った。

みんな違ってみんないい、の詩の通りのことを人間は常に思えるだろうか?僕はこれから先もそう思えると言い切れる自信はない。

でも、このあいだ僕は激しい嫉妬を感じたが、

「この人はこの人。僕は僕。僕は僕のできることをやろう」と思えたのだ。

おそらく以前だったら奪われた感覚がすぐに湧き上がって、被害者意識の塊と化し、「僕のやりたいことを奪う気だ!!」とその人を罵詈雑言で罵って、その時ばかりの愉悦を味わっていた気がする。

しかし、いまは、そう感じないから不思議である。

ある意味、「僕は僕にしか出来ないことがある」と自分を信じているのだと思う。

表現とは多彩である。人の数だけ表現がある。その人はすごい実力で大人数を魅了するかもしれないが、僕は僕の表現で、苦しんで僕と似た気持ちで泥沼にいる人に、すこしでも寄り添えたなら、それでいいのでは無いだろうか。

僕には僕にしか出来ないことがある。それはすごいことでも無いし、立派なことでもない。ただ、僕が今できることの積み重ねが、僕にしか出来ないことになるだけなのだと思う。

だから僕は僕の有り様のまま、僕が今できることを積み重ねていくよ。ここから、また一歩、改めてスタートラインだと思って踏み出していきたい。

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