なにが人生の成功なのか
ふと虚しさを覚えた。
メンヘラの精神構造を読んでいる時だ。自分の祖母も完全なる過干渉で被害妄想がとても強い悲劇のヒロイン系メンヘラなのだが、「ああそうか、祖母は本当に可哀想な人なのか」と思った。
アバウトに書くから身バレとか無いだろうと思い、ここに書くが、祖母は何度かテレビに出て特集を組まれた人である。自分はこんな人でもテレビに映るんだなという感想しかなかったが、唐突に思ったのだ。
「テレビに映って、有名人でないにしてもある意味、人生の勝ち組にも方向によっては見える。けれども、中身は空っぽで、メンヘラで孫に干渉し、いつでも家族から称賛を得ないと拗ねたり不機嫌になったりとコントロールしたがる自己肯定感を他人に委ねた何もない人が、方向によっては人生の成功者に見えるだけであって、だから、なんなんだろう」と。
フォロワーがたくさんいても、いいねがたくさんあっても虚な心
ぬいとして話し始めてから、最初の方にいいねやら、そういう評価の数に噛み付いている記事がある。
そもそもに、最初に気付き、ぬいとして声を出して話したいことの原点はこのことだと思う。
あるときに、「このままの自分では、いいねが万もらっても、フォロワーがたくさんいたとしても、たぶんずっと空っぽで、ずっとずっと飢えたままだ」と思った。そこが、こうしてぬいとして、正直に自分のままでいたいと思った行動の原点かもしれない。変わりたいと思った原点かもしれない。
それがうまいこと表現できないのと、承認欲求をこじらせていいねなんか嫌いだバーカバーカになってしまったのだけど、根本的な自分の考えを渦巻く中心位置に、この思想はある。
ここを直さないと、いつまでも飢えたまま周りに認めてよ、認めてよ、フォローしていいねほしいの、の彷徨う未熟な人間になると思ったのだ。だから、自分の肯定感を高めようとしている。自分が良いならば、いいねなんてゼロでも100でもありがたい。そうなりたいのだ。
その自分中心ばかりで気づかなかったが、なにより良いお手本が家族にいたと気付いたのだ。
わかりやすい成功と、空っぽな人間
そして同時に考えた。
こんな未熟な人間でも、わかりやすい成功は手に入るのだ、と。つまりたいして努力(したかどうかは不明なところもあるが)をしていなくても、ころりと成功っぽいものは案外運が良ければ目の前にやってくるというべきか、
「必ずしも努力して、成熟した人間に成功(みたいなもの)が訪れるわけではない」ということと、逆に「人間が未熟でも成功みたいなものを手に入れることが出来ることもある」
という両面を見れたことが、自分にとっては得たものである。自分は全然知ろうとしてなかったことである。眼から鱗だったのだ。
成功に振り回されるなよ、僕
僕は劣等感が強いため、成功したい気持ちが強い。でも、その成功ってなんだろうって、自分に問えたことが一番の成果である。
自分の中には強い劣等感と学習性無力感から、成功=努力の集大成(ご褒美)みたいな考えが根付いていた。
つまり、劣等感をいち早く取り除くには、成功すれば良いみたいな考えがあったのだ。自覚しかけてて、疑問もあったところに、祖母の存在という金槌が振り下ろされた。良いことである。自分の価値観にヒビが入り、楽になったのだ。
そして自分は自分の中で、そんなのは成功じゃないとわかりながらも、フォロワー数やいいねの数の多さ、といったわかりやすさが評価じゃないとわかりながらも、羨ましさから「わかりやすさ」として成功に近いものとも、思っていたのだ。思っていたから否定したかったし、違うと頭の中で分かっていても、わかりやすいという手軽さは自分の価値観を揺らぐ要因になりやすかった。だから余計にいいねについて噛み付いていたのだと思う。
言いたいことは
ぐるぐる回っているような書き方になったが、言いたいことは、一見成功者に見えたとしても、中身空っぽならなにが成功なんですかね。という話である。
わかりやすい成功は、正直言えば羨ましい。良いなあって思う。でも、それが本当に価値があることなのか?本当に成功なのか?本当に自分は嬉しいのか?周りが喜ぶことなのか?
そして成功してるように見える人たちが本当に「羨ましいと思うに値する人たちなのか?」
「妬むことに値する人たちなのか?」
周りを妬み嫉み恨みやすい自分には、こういう価値観がほしかった。良い価値観を得たと思う。
これでまた一歩、自分のままでいても良いんじゃないかなと思える動力になったとして、今日は終える。今日も良い日であった。
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