エヴァ、子供を絶望させる大人達
「碇シンジの悩みは極めて抽象的に描写されている。しかしそれが多くのファンを惹きつける要因となっている。抽象的だからこそ人それぞれによって解釈が分岐し視聴者はシンジの中に己の悩みを見る」
何で見た考察か忘れてしまったがこんな風にエヴァを捉えている人がいた。
そうか、と私は感心した後思い当たる節が強烈に迫ってきた。
※この記事は以下ネタバレを含みます。
初めてエヴァを観た夏
私が初めてエヴァにきちんと触れたのは21歳の夏だった。就活が山場となり、修羅場とも言えよう役員面接が目の前まで迫っていた7月後半だった。
家に1人いた私はぼーっとしていてなんでもいいからアニメが観たいと思い、親が録画し溜めているファイルを漁ることにした。そして出てきたのがエヴァだった。
元々興味があった。
しかしなんとなく観ないでいたのでこれは好都合とアニメの第一話を徐に再生した。
始めは淡々とした気分で観ていたが直ぐに強烈なデジャヴが私を襲う。
それはシンジが父親にエヴァに乗れと命令されるシーンだ。
碇シンジ 父さん、なぜ呼んだの?
碇ゲンドウ お前の考えている通りだ。
碇シンジ じゃあ、僕にこれに乗って、さっきのと戦えって言うの?
碇ゲンドウ そうだ。
碇シンジ 嫌だよそんなの!何を今更なんだよ!父さんは、僕が要らないんじゃなかったの?
碇ゲンドウ 必要だから呼んだまでだ。
碇シンジ なぜ、僕なの?
碇ゲンドウ 他の人間には、無理だからな。
碇シンジ そんな、見たことも聞いたことも無いのに、出来るわけ無いよ!
碇ゲンドウ 説明を受けろ。
碇シンジ そんな・・・!できっこないよ!こんなの乗れる訳無いよっ!
碇ゲンドウ 乗るなら早くしろ。で、なければ帰れ!
(http://tranqsroom.web.fc2.com/other/lines/eva/01.htm より引用)
なんの説明もなくいきなり死亡リスクのあるミッションを父親に課せられる14歳少年。
冬月コウゾウ 奴め、ここに気付いたか。
赤木リツコ シンジ君、時間が無いわ。
葛城ミサト 乗りなさい。
碇シンジ 嫌だよ・・・せっかく来たのに、こんなの無いよっ!
葛城ミサト シンジ君、何のためにここに来たの?だめよ、逃げちゃ。お父さんから、何より自分から。
碇シンジ 分かってるよ、でも、出来るわけ無いよっ!
この後にあの名台詞。
綾波レイ はぁっ・・・くっ!はぁっ、はぁっ・・・
碇シンジ (逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだっ!)
やります、僕が乗ります
大人達は未完成な少年にこう促した。
「やるのかやらないのかさっさと選べ」
でも本当の意味はこうだ。
「お前に選択権は一切ない。考えるな。悩むな。お前が実行することは最初から決定事項だ。変更などという概念はない。いいからさっさとやれ」
ゲンドウの「でなければ帰れ」という突き放すような言葉からは、実行しないことを容認し咎めないとする意思は感じられないからだ。
「さっさと選べ」
「さっさとやれ」
この2つのワードが私にとってデジャヴだった。高校3年の夏、部活の集大成とも言える最後の集団で出場する大会を目前にして私の精神状態は一種のいじめによって重度に悪化しており部活を辞めたくなった。
顧問は私に「どうしたいのか」という表現で聞いてきた。私の本音は「辞めたい」であったが集団競技に参加している以上口にする事は許されないセリフだった。
いつまでも煮え切らない言葉しか発しない私に対し顧問の言葉は変化していった。
「どうしたいのか」
「やるか辞めるかどちらかなのか」
「やるか辞めるか選べ」
「さっさとやるか辞めるか選べ」
そして最終的にここに着地した。
「さっさとやれ」
最終的に私は集団で競技の合わせ練習をしている中、精神状態の衰弱から動作を停止するようになり、
顧問は私の退部を認めた。
「選べ」と「やれ」
私は「選べ」から「やれ」に変化したが、最初から「選べという名のやれ」だったシンジくんはもっと辛かっただろう。
「選べ」と「やれ」
これらは一見似ているようで全くジャンルの異なる命令である。
前者は対象者に精神的圧迫を与えながらも選択権という一種の人権を与えることによってそれを緩和している。しかし後者は圧迫以外の何者でもない。
まだ「さっさと食べろ」や「さっさと歩け」であれば具体性がありやるべきことが単純明快でいつかは終わる。しかし「やれ」だとそれ単体では全く命令に具体性がなく期限もないので非常に抽象的だ。事前に「エヴァに乗れ」などその目的語が開示されていたとしても文としては完全に切り離されている。目的語の開示があろうと精神が不安定で言語理解能力、思考能力が低下した人間の頭にはおそらく「目的」よりも「やれ」という極めて攻撃的な言葉の方が響くだろう。
さらにシンジ君は「父親や自分から逃げてはいけない」という己の弱みを強く認識させる言葉を投げかけられている。
「精神的に衰弱した相手に自分の弱さを強く認識させた後圧迫的で強制的な言葉を投げつける。」
強烈な劣等感を覚えさせ自分より優越性があると感じる他者の命令が絶対的なものであるかのように錯覚させる。
私が思うに洗脳の常套手段だ。
「やる」と「する」は何が違うのか
「さっさとやれ」の「やれ」だがこれは動詞「やる」の命令形だ。
ここで私はある疑問を感じた。
日本語には「やる」という抽象的な動作を実行に移すことを意味する言葉の他にほとんど同義に見える「する」という表現も存在する。
「やる」と「する」とでは何が違うのだろう?
「さっさとしろ」と「さっさとやれ」では私は後者の方がよりキツい印象を受ける。みなさんもそう感じる人の方が多いのではないだろうか。より命令的というかニュアンスがより強制的で圧迫感がある。
私は「する」と「やる」を辞書検索してみた。
すると以下のようなものが出てきた。
する/行う/やる の使い分け
1「する」は、ごく一般にいろいろな動作、行為についていう。
2「行う」は、改まった表現。目的語も公的なものや熟語などが多く、はっきり決まった内容の事柄を受けて使われることが多い。
3「やる」は、口語的な表現。具体的な内容の目的語をとるより、漠然と動作、行為を表わすことも多い。
(goo辞書 小学館類語例解辞典)
「行う」という言葉を見逃していた。
しかし今回は命令形として使われやすい「する」と「やる」について言及する。
これを見る限り私の「やれ」の方がキツい印象を受けるというのには根拠があったと言えそうだ。
3「やる」は、口語的な表現。具体的な内容の目的語をとるより、漠然と動作、行為を表わすことも多い。
口語的、つまり文中に使うのではなく人が人と喋る時に使われやすい。「エヴァに乗ることを」など具体的な目的語を伴うより「やれ」などと抽象的に使用されることが多い。
シンジ君も確かに作中でこう口にしている。
「やります、僕が乗ります」
目的語を伴っていない。「乗る」に関してもそうだ。
つまりこう言えるのではないだろうか。
「やる、やれ」という言葉は人々が目的を一時的に放棄し、実際に行動に移すかどうかのみに強く着目したい時によく使われる。そして目的を一時的であろうと放棄する行為は理性的とは言い難い。
その言葉を口にする時彼らは無意識のうちに感情的になっている。
感情的なのだ。
そして想像してほしい、「やる」を命令形に活用し「さっさと」という乱暴な促しを付け加える。
冷淡に、冷たい視線で表情を変えず突き放すように
「さっさと、やれ。」
激昂しながら暴力的な口調で怒鳴るように、そして「さっさと」の前に一言さらに付け加える。
「いいからっ.....さっさとやれ!!!!!!!!!」
これをされて平静を保てる人間は少ないだろう。
「やれ」という言葉は使い方次第で人間の精神を破壊し自我を忘却させる「トドメ」となり得るのだ。
だから私からみなさんにお願いしたいことがある。
冗談を除き本気で「やれ」という言葉を安易に使用することは避けてほしい。
相手に非がなければ相手はシンジ君になってしまう。
ここまで読んでくれたみなさんだ。エヴァが好きで私に共感する気持ちがあると信じている。
どうか人を傷つけないでほしい。
傷つけまいと努力してほしい。
約束するから。
私は子供達を絶望へと導く大人にはならない。
私がこの記事を書くきっかけとなったnoteです。
皆様ぜひお読みください。
エヴァンゲリオンー空虚からの同一化
斎藤環 氏(精神科医)
https://note.com/tamakisaito/n/nd88150c81d60
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