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もしかしたら明日死ぬかもしれない

感染症のニュースを見ながら、もしかしたら明日死ぬかもしれない、と思った。
こうやって時間をかけてじわじわ危険が迫ってくると、状況を受け止めて考える余裕があるというか、いろんなことを考えすぎてしまう。

死ぬことを思うと1番に不安になるのが、大好きな子供たちや夫に会えなくなる寂しさだったりするんだけど、死んでしまったら寂しさを感じる脳みそも無くなってしまうわけだから、心配には及ばないのかもしれないね。
つらいのはきっと、残されたほうだ。


長男は優しい子で、いつもわたしの心配をして気遣ってくれる。
わたしがパソコンをカタカタしている背後にひょいと現れ、「おしごとがんばってるね!」と声をかけてきて肩をたたいてくれる様子は、とても4歳とは思えない。
わたしが突然死んでしまったりしたら、「ママがかわいそう」と泣くはずだ。
次男はマイペースでひとり遊びが得意だけど、わたしの姿が見えなくなると途端に機嫌が悪くなる。
わたしがいると分かっているから、安心して遊べるのだ。
そんな子供たちを置いて死ぬなんて、と、起きてもいないことを想像しては毎晩涙を流す。


わたしが突然死んでしまったとして、残された家族が悲しいと感じるのは当然のことだけど、「ママがかわいそう」とか、「ママごめんね」とか、わたしの気持ちを想って苦しんでくれなくていい。
わたしが今、「死んだら夫や子供たちに会えなくなって悲しい」と思うこととは全く別で、死んだわたしはもう悲しい思いなんてしていないから。
気持ちを感じる、脳みそが死んじゃってるんだもの。
死んだわたしはもうわたしじゃない。
それを伝えたいけれど、死んでからでは伝える術もない。


自分のこと以上に子供たちと夫のことが大切で、どんな思いをして死を迎えたとしても、子供たちや夫が生きていること以上に嬉しいことはない。
わたしがそういう考え方をする人間だという事実は、死んだ後でも変わらない。
もし、死後に感情があるとしたなら、死んだのがわたしでよかった、みんなが生きててよかった、と、思うはずだ。
死んでから伝えられないのは分かっているのだから、生きているうちに、元気なうちに、わたしの思いを、考えを、しっかり伝えていきたいと思う。


慰めるわたしがいないのに、どうして死んじゃったの、と泣かせたくない。
できることならお化けになって、ずっとずっと子供たちを守ってあげたい。
死んだことがないから分からないけれど、それは無理そうだと思っている。
だったら、子供たちが「まあよく生きたよね。仕方ないね。」と思えるくらいまでは生きていたい。
どうにかこの危機を乗り越えて、人間ドックにも行って、野菜とか豆とか海藻をたっぷり摂って、なわとびも1000回できるように練習するから。

そんなことを考えていたって、いつ何が起こるか分からないのが人生。
せめて、喧嘩をしても、1日の終わりには仲直りして眠りたい。
どんな時でも、大切なひとを受け止められる、大きな心を持った人間になりたい。

もしかしたら、明日、死ぬかもしれないんだから。

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