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建築系プログラマー・レコードデビューで感じたこと

建築でも音楽でも持ち上がるデジタルとアナログ論争。
その中で仕事をし生活していく上でやっぱり避けては通れないと思い、ついに本日レコードプレーヤーが自宅に!
レコードデビューしたのであった。

機器の水平を調整、ウエイトの調整になかなか苦戦し、1時間くらいかけてやっと音が出るように。
それからあらかじめ購入しておいた思い入れのある楽曲の入ったレコードを一通り流し、モニーターヘッドホンでサブスク音源と聴き比べてみたりした中で感じたことを書こうと思う。

結論から言うと僕はレコードから流れる音がすごく好みになった。
ただ、聴き比べの中で、デジタル音源・レコード音源、どちらも明確に良さがあり、それぞれの良さの体験の中でふと思ったことがあったので、共有できればと思う。


アナログ機材は同居人

時々針が飛んだり、同じ箇所をリピートしてしまったり、その都度プレーヤーに駆け寄っては針を調整。
何か防ぐ方法はあるのか?そもそもレコードってこういうものなのか?
ノイズがたまに入るのは自分の部屋の埃のせいだろうか?
レコードが僕の部屋の机の上で回っている以上、音質のファクターには僕の生活環境が絡んでいる可能性が浮上する。このレコードプレーヤーはメンテする僕を初め、周辺の家具や少し離れた寝具にまで、広い関係性を築こうとしているように見えた。俺は今日からレコードプレーヤーと「同居」するんだろう。

関係性は場所を超えて

レコードは事前に地元春日部の老舗中古レコード販売店、A-1ミュージックで手に入れた。
僕がレコードを眺めている間、カウンターを振り返ると、マスターは黙々と次に店内にかけるBGM用にレコードを丁寧に磨いている。
今回購入させてもらったのは、映画Saturday Night Fever(1977)のBee Geesサントラ
(映画を見て以降、AppleMusicで聴きまくっていた)と、リチャード・クレーダーマンのアルバム。クレーダーマンはかつて祖父が好んで聞いていて、自分も一時期「渚のアデリーヌ」のピアノを練習して祖父の前で披露した思い入れがあり、店で偶然にも遭遇することができた。
帰り際、マスターと少し会話する。
私「最近は若いお客も増えたりします?」
マスター「ここ数年で増えましたね、一番若い子だと小四ですよ(笑)」
答えに衝撃を喰らう。小四からレコードを漁る子がどんな風になっていくのか想像するだけで楽しみだ。そして何よりそんな自分より若い世代がこの街のどこかにいたんだという興奮。どこかで出会えるかな。

レコード・サブスク聴き比べ大会

CDやサブスクよりレコードの方が「音がいい」とよくいわれるが、実際体験しないことにはわからない話である。「いい」ってどう「いい」んだよ。
今までサブスクで幾度となく音楽を聴いてきたが、モニターヘッドホンを使うようにしてからその音質にはかなり満足している。

さて、普段から使っているモニターヘッドホンAIAIAIのTMA-2を使ってレコード音源と、サブスク音源の聴き比べをしてみる。
結果、かなりの違いを感じることができたとともに、デジタル・アナログそれぞれの特徴もかなり見えてきて面白い。自分が感じた違いは以下である。

デジタル(サブスク)
使っているヘッドホンがモニターヘッドホンと言うこともあると思うが、レコードと改めて比較した印象として、音の要素一つ一つがしっかり分離していることが挙げられる。
ボーカル、パーカッション、ドラム、、ヘッドホンの向こうにかなりクッキリそれぞれのトラックが見える感じ。
いわゆる高解像度で楽曲の構造を知る上で「いい」特徴と言えるだろう。

レコード
一方のレコードで聞く音は音の要素一つ一つに伸びがあり、それぞれの存在をしっかりと感じつつも、一つの曲としてのまとまりを作っている印象をえた。
中域の音が際立って聞こえる感じもあり、これは上記のまとまりにも通ずるところかもしれない。
とにかく、「曲」を聞いていると感じる。

すごく個人的なのかもしれないが、レコードの音は聞いていて頭が痛くならないような心地よさがあるとも思った。それはレコード特有のまとまりにある気がしている。
多くの人が「温かみ」といっているものに近いかもしれない。

ともあれ、今回の聴き比べで分かったことは、デジタルの離散的な特徴もアナログのニュアンスやまとまりも、どちらもそれぞれで「いい」ものであって、場合に応じて共存すべきなのだということだ。

離散・連続の二項対立の間で


建築の目線から音素と主題について考えさせられる。

大前提として建築の構成要素は離散的だ。
基礎があり柱梁根太小屋組があり設備断熱材内装がある。細かい部品の集合体だ。

最近では環境問題も背景に建築資材のアップサイクルをデザインに取り入れる事例も増えてきているように見受けられるが、そんな離散的なエレメントの集合の中でどのように一つの建築としての全体をまとめ上げるのかという問いが生まれる。

音源の分離が際立つデジタル音源のように、離散したエレメントの独立を肯定する場合、その要素たちは再度分離してまた異なる物件に用いることが容易だろうし、個々のモノが独立して存在する状態をある種の美学として語る立場もある。

だとすると、要素に伸びと全体のまとまりがあるアナログレコード的建築はどのようなものだろう?
エレメントは離散しているが、その場の関係性の中にしっかり埋め込まれている。主題があるということなのか。

レコードの音が実現している音素と主題の関係性は建築にも応用できそうだ。


プログラマー的に考える関係性の帯域幅

次にプログラマーという立場で感じるのは、その「音楽を聴く」という目的の体験に至るまでのプロセスの厚みがあることと、それゆえにさまざまな他者との関係性が生まれることだった。

カルチャーの中の音楽のためのメディアの中のレコードのためのレコードプレーヤーアームについてるカウンターウエイト。
こういったユーザー側に委ねられた手間から生まれる関係性のレンジは広い。

レコードの掃除の仕方が分かりません、針圧どれくらいまであげていいの?教えてください!助けてください!!
その時、思い当たる店、人の顔。

こうした体験プロセスの厚みや幅広い人との深い関係性の構築ははソフトウェアではなかなか難しい。
例えばUberEatsを使ってあったかい中華を素早く家に届けるためにはスマホかパソコンが必要なように、テクノロジーを使ったサービスを受けるには必然的にその末端で人が触れるインターフェースが必要である。
僕たちいわゆるデジタルネイティブはそうした端末を生活の一部として自然に受け入れているが、その端末同士のやり取りが行われている周波数帯のレンジは実はかなり狭かったのだと思わされる場面も多い。スマホを持たないおじいちゃんにはチャンネルがあっていないので、直接お店に行かざるを得ないのである。

こういった問題は世間的に「デジタルデバイド」と呼ばれているが、アクセスできない立場をどう考えるかと同時に、アクセスできる側がいかにいかにその制約の中にいるかということに気づけるかの方も考えるべきだろう。
意識的にならなければ、生活の上での関係性のレンジをソフトウェアに制限されてしまいかねない。そもそもこのnote記事だってサーバー上のアルゴリズムを通してどれだけの関係性のレンジを持っているか??

ソフトウェアを作る立場として自覚的になり、1人の豊かな生活を求める人間として帯域を広く持つためには、ソフトウェアの担う帯域に縛らない生き方をしていきたいと思うに至った。

ブームを超えた「いいもの」の再発見

若い世代がレコードを聴くようになったり、喫茶店を好むようになったりという現象は「レトロブーム」という言葉で語られがちだが、僕自身、それを好む者として、そこにはブームや表面的なノスタルジーを超えた「いいもの」の本質的なあり方があるきがしている。
それは、デジタルメディアがもたらす便利さと寄り添いあいながら、双方時代を超えて残っていくのだろう。

レコードから流れる音楽を聞きなはら、そんな記事を書いているのだが、その間何度席を立ち上がったことか。というか、そもそも何でレコードの溝は一本なのにステレオなんかが実現できてるんだ??不思議すぎだろ、

マスター、近々店を訪ねるのでご教授ください。


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