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この世界のはなし(3)~多世界解釈論~

物質を際限なく細かくしていくと、最後は「粒子と波の性質を併せ持った」ものになるという記事を書きました。量子と呼ばれるものです。

この量子は、観測していないときには波の状態にありますが、観測するとそれが粒子として捉えられるといいます。

例えば、ここに量子が一個、箱の中に入っているとしましょう。蓋をされて中が見えない状態では、量子は粒子ではありません。波の状態です。この波の状態というのは、「粒子がどこにあるか分からない」状態ではありません。「あそこにもあると言えるし、ここにもあると言える」ような状態です。

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しかし、箱を開けてみると、その量子は波の状態ではなく、はっきりとした粒子として観測されるのです。

さてここで、少し変わったことを考えてみます。量子を入れた箱に蓋をします。ここまでは上のものと同じです。今度は、その箱に仕切りを入れて、二つに切り離しました

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さぁ、どうなるでしょうか。箱のなかのどっちにあるかは分かりません。もともと、「あそこにもあると言えるし、ここにもあると言える」状態なので、箱を二つに割った場合、「どちらの箱にもあると言える」状態になります。では、この二つの箱を開けたらどうなるでしょう。

箱を開けない限りは、「どちらの箱にもあると言える」状態ではあります。しかし、箱を開けた瞬間、観測されるのは、必ずどちらか一方の箱に粒子が1つだけある状態です。

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観測者が観測してこそ、「右の箱に粒子が入っている」か、「左の箱に粒子が入っている」かがはっきりするということです。とても奇妙な話ですが、超ミクロの世界は、このようにできているとされています。

私たちが日常生活で、そのようなことを体験することはありません。アインシュタインが言う通り、月は誰も見ていなかったとしても、月は月としてそこに存在しているはずです。けれども、私たちが日常目にしている物質は、そんな不思議な振る舞いをする超ミクロな物質の集まりであることも事実なのです。

では、この「右の箱に入っている」こともあるし、「左の箱に入っている」こともある世界をどのようにとらえるべきでしょうか。どちらもあり得るわけです。

この確率論で世界が決まってしまうような不確定な現象の捉え方として、多世界解釈論というものがあります。

先ほどの箱の例でいうと、箱を開けた瞬間、世界は「右の箱に粒子が入っている」世界と、「左の箱に粒子が入っている」世界に分かれるというものです。そんなバカな!と思うかもしれませんが、そのように解釈することで、量子が揺らぐ曖昧な世界を説明できるようになるのです。

そして、そうすると自分という存在自体が、「右の箱に粒子が入っている」ことを観察した自分と、「左の箱に粒子が入っている」ことを観察した自分に分かれることになります。自分自身が分かれる?さらに不思議なことになりますが、多世界解釈論によるとそういうことになります。

さて、ここで問題です。今、これから見ること・・・無数に分かれる自分があるとして、あなたはどの自分を選択したいですか?

何やら宗教のような話になってしまいましたが、量子論を考えていくと、そんな宗教のような話にも繋がっていくようになるのです。元々、科学も宗教も真理の探求が目的だとしたら、このように両者が同じような結論に導かれるのは必然かもしれません。

ところで、なぜこんな話を取り上げるかといえば、これからの世界の波に飲み込まれないようにするためです。

今、世界の動きが見えてしまえばしまうほど、その巨大さの前に、自分たちの無力さを痛感せざるを得ないのではないかと思います。人によっては、諦めてしまうかもしれません。そこに希望の光見出せなければ、その波に飲み込まれてしまうのは必然です。

しかし、簡単には諦めないでください、ということが言いたいのです。自分が生きたいと思う世界(宇宙)は、自分で決められるし、そこに向かって進むことができるということです。

こうしたことは、宗教やスピリチュアル的な意味合いで言われることがあるかもしれません。しかし同時に、科学的な意味でも、同じようなことが言えるということです。

私たちは、もっともっと一人一人の自分という存在に、自信を持っていいと思うのです。

ただし、この多世界解釈論には、無理があるとの指摘もあります。

例えば、そのうちのひとつのポイントとしては、「自我」とは何か?という問題です。

エヴェレットの多世界解釈によるとその多世界の中にそれぞれ別の歴史を歩んでいる「自分」がいるとの事だが、それはそもそも「自分」なのだろうか
たとえ「別の自分」が「この自分」とほとんど同じ歴史(人生)を歩んでいたとしても、記憶(経験)が完全に一致していない限りそれは自分そっくりなだけの別人ではないのだろうか?
※宇宙の謎を哲学的に深く考察しているサイト「「エヴェレットの多世界解釈」の利点と問題点」より引用

自分」は、今この世界にいる「自分」であるはずで、別の世界にいる「自分」は「自分」ではないはずだという指摘です。なるほど、そういう言い方はできるかと思います。

しかし、仮にそういう問題があるとしても、私は多世界解釈論的な宇宙観というのは、矛盾なく説明できるのではないかと思っています。これについては、また機会をあらためて整理をしてみたいです。


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