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虚像だった聖徳太子

聖徳太子という人物が実在していたかどうかについては、いまだに論争が続いています。聖徳太子については、謎や不思議なことが多すぎて、実在を疑いたくなってもしかたない側面があります。

そもそも聖徳太子というのは、のちにつけられた名前で、もともとは厩戸王(うまやとおう)です。馬小屋で生まれたと言われています。これがイエス・キリストの誕生伝説のようだということで、これがまず不思議1です。

有名なのは豊聡耳と呼ばれるエピソード。10人もの人々の請願を一度に聞き分けて、それに対して的確な返答をしたというものです。この超人的な逸話が不思議2です。

さらに「日本書紀」には未来のことを予知したと書かれており、「未来記」という予言書を残したという噂までたったといいます。これが不思議3です。

またあるときは、数百匹の中から神馬を見抜き、それに乗って天高く飛び上がり、富士山を越えて信濃国まで行ったという話があります。荒唐無稽の話に聞こえますが、これが不思議4です。

以上のことは、到底、現実のものとは思えないような逸話ばかりです。

ただし、これらの逸話が嘘だから、聖徳太子は実在しなかったという論拠にはなりません。「憲法十七条」、「冠位十二階」、「遣隋使の派遣」など、彼が関わったとされる歴史的偉業は、実際にあったわけですから、聖徳太子の実在をまるごと否定することはできないわけです。

では、この不思議な状況をどのように考えるべきでしょうか?

私は聖徳太子というのは、厩戸王という人物をベースにして、新しく作り上げられた別の人格なのではないかと思います。つまり、厩戸王という人物のうえに、彼以外の歴史的功績をあれこれ乗っけて、彼がものすごく偉大な人物(=聖徳太子)として仕立て上げられたのではないかということです。そうすると、聖徳太子の実在を丸ごと否定することもなく、同時に彼が謎だらけのエピソードに飾られていることも説明できます。

問題は、なぜそんなことをする必要があったか?ということです。

日本の古代史は、古事記や日本書紀、いわゆる記紀によって組み上げられています。記紀は、日本の古代史を知る上では、大変貴重な資料です。しかし同時に、記紀が当時の権力者の正統化に使われた可能性を考慮しなければなりません。

そして、聖徳太子の時代が記紀以前のものだと考えると、そこに何らかの政治的意図が働き、情報操作が行われたとみて、不思議はないわけです。

では、どんな政治的意図が働いたとみるべきでしょうか。最も考慮すべきは、大化の改新です。記紀によると、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子と中臣鎌足は、歴史的な英雄になっている一方、討たれた蘇我氏は専横政治を行った悪者になっています。その事実を踏まえたうえで、聖徳太子の系譜(Wikibooksより引用)を見てみましょう。

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ご覧いただければわかる通り、聖徳太子というのは、ガッツリと蘇我氏の系統なのです。同時に天皇家の血筋でもあります。

ここで少し想像を膨らませてみましょう。記紀で、蘇我氏を討ったとされる中大兄皇子や中臣鎌足ですが、彼らが討った蘇我氏が、実は本来の天皇家の血筋であり、同時に偉大な功績を上げている人々だったとしたらどうでしょう。蘇我蝦夷の宅には、それまでの歴史書があったとされています。蘇我氏というのは、それだけ特別な一族だったわけです。それを討ってしまった彼らは、是が非でも蘇我氏の正統性を隠す必要が出てきます。こうして、聖徳太子は、逸話だらけで実在が怪しいながら、同時に確固たる実績を持ち合わせるキャラクターとして仕上がったと考えられるわけです。

聖徳太子については、さらにひとつ気になることがあります。聖徳太子を宗祖とする、聖徳宗の総本山が法隆寺です。その法隆寺の夢殿が、明治になって開扉されるのですが、その折に、僧侶たちが「祟り」を恐れて逃げてしまうのです。

そして、夢殿から出てきた仏像は、白い布でグルグル巻きにされていたといいます。安置されていたというよりも、さも「祟り」から目覚めないように白い布が施されたような状況です。仮に聖徳太子が、蘇我氏から生み出された虚像だったとして、その蘇我氏が討たれているとしたら、それを知っている人々は、聖徳太子が怖くてしょうがなかったはずです。そう考えると、この法隆寺の開扉の一件についても、すんなりと説明がつきます

今回は聖徳太子について、まとめてみました。しかし、これは記紀が語る日本古代史のごく一部にすぎません。日本建国の歴史については、さらにいろいろと考察していく必要があります。そのあたりの話については、また機会をあらためて、整理をさせてください。

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