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「現代文が一番得意」だった人間の末路

本当は英語の方が得意だったかもしれない。数学もやりこんだ。他の科目に比べて傑出していたかと言われると怪しい。

それでも僕は「現代文が一番得意」と言ってきた。

なぜなら、一番かっこいいからだ。この感覚がまず分からない人は帰ってくれ。ここからはこの話しかしない。

対人コミュニケーションにおいて、「得意科目なんだった?」系の話は、強力な人間の属性分けだ。キャラ付けだ。何の科目が得意と示すかで、どんな奴と思われるか、そのイメージがちょっと決まってしまう。

そしてその模範解答は「現代文が一番得意」だ。地頭がよさそう、論理的に考えそう、そのうえ詩的な感性があり娯楽にも理解がありそう、くらいに思ってもらえる。めちゃくちゃ都合がいい。

「現代文が得意」っていいよな。

「英語が得意」「体育が得意」に比べるとハッピーオーラが少ないので鼻につかない。

「数学が得意」「音楽が得意」「美術が得意」あたりに比べるとフレンドリーで取っつきやすい。

「社会が得意」「理科が得意」はちょっと置きに行き過ぎてるモブキャラ感がないか。

「技術が得意」「家庭科が得意」「情報が得意」はモブにも程がある。

「総合が得意」「道徳が得意」なんて答えたら異常者だ。

「休み時間が得意」「給食が得意」で笑ってくれるのは自分のおばあちゃんだけだ。

やっぱり、どう考えても得意科目を聞かれたら、「現代文」と答えるのがベストだ。僕は現代文が得意だ。


ここまで書いてきた文章に、「現代文が得意だった僕」のすべてがある。

現代文が得意というのは、少なくとも僕にとっては「状況判断のうえ、もろもろを逆算し、求められているものを先回りして感知し、その場で最も都合のいい解答を叩き出す、浅ましさを持つこと」と同義だったのだ。

僕の現代文の解き方はシンプルだった。

①解答用紙のサイズと問題文から、採点基準の個数を逆算する
②問題を解きながら、採点基準をいくつ満たしてるか数える
③解き終わった時点で自分が何点か正確に分かる

この3点だ。

なんだか、浅ましくないか。なんか舐め腐ってないか。ただただ「問いに答える」「試験を受ける」という営みを斜めから見て、一番コスパよく点を取ることだけを考えたやり方じゃないか。

実際問題として、僕は言語への強さをそこそこ持っているとは思う。読む・書く、どちらにも苦手意識はないし、言葉もそれなりに知っている。論理的思考、ってのも苦手じゃない。

でも、それらの根本は、元祖は、大元は、ルーツは僕の精神的な浅ましさ、性格的な部分ではないかと思うのだ。浅ましさが総監督で、後から他の能力がついてきたんじゃないか。

考えたくもないが、認めたくもないが、恐らく、「現代文が得意」な僕が本当に優れていたのは、地頭でも論理力でも感性でもない。

相手を舐め腐り、斜めから見て、雰囲気や顔色を察知し、最大公約数的に好かれやすそうな振る舞いを選ぶ「家畜ごっこ」のスキルだったのだ。

寂しいな。悲しいな。虚しいな。僕は現代文得意だよ。家畜ごっこが得意だから。

そしてこの「家畜ごっこ」のスキルは、いくつかの分野において自分の助けとなり、同時に上限ともなった。

「家畜ごっこ」は、「物事を斜めから見る」「雰囲気から相手が求めているものを推測する」「それを出力する」の三要素からなる。

なにせこのやり口は、自分が斜めから見れるもの相手ならばめちゃくちゃ有効なんだ。あらゆる分野において、中級レベルまでスキルを伸ばしたいと思ったら、たぶん最速ルートだと思う。

でも、「斜めから見れないもの」が現れたら、途端に無効化される。家畜ごっこができない。本当に家畜になってしまう。

僕にはそこで躓いたものがたくさんある。やる前から諦めたものもたくさんある。

自分を舐め腐って、世の中全体を舐め腐って、すべてを斜めから見て、自分が一番活躍できるところを探すメタ家畜ごっこ、すらしてきた。

浅ましいだろう。情けないだろう。これが、現代文の得意な僕だ。そして僕はいま、芸人をしている。現代文の得意な僕のゴールは芸人だった。

これが、実は性に合っている。

現実を舐め腐って、斜めから見て、何らかの形でお笑いにしていたらいいんだよ。やってたら、お客さんが集まってきて、笑ってくれる。なんだか少し、みんなで現実から自由になれた気分になる。

僕は生きてたらいい。お笑いをするんだ。めちゃくちゃいいじゃないか。家畜にでも何にでもしてくれ。僕は頑張るよ。

これくらいが模範解答か?

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