九月

ピン芸人です。普段はコントをしています。折に触れて文章を書きます。エッセイ『走る道化、…

九月

ピン芸人です。普段はコントをしています。折に触れて文章を書きます。エッセイ『走る道化、浮かぶ日常』(祥伝社) YouTube「九月劇場」 https://www.youtube.com/@kugatsu_gekijo

マガジン

  • 息を止めて書いた

    息を止めて書いた、勢いだけの文章。リズム以外何もない。

最近の記事

  • 固定された記事

九月とは何をしている誰なのか、コンテンツマップ

概要基礎プロフィール 名前   : 九月 生年月日 : 1992年9月21日 出身   : 青森県八戸市 経歴   : 八戸高校卒業        京都大学教育学部卒業        同大学院教育学研究科修士課程修了 職業   : 芸人 所属   : フリー 趣味   : 散歩、読書、音楽、美術館、野球観戦 特技   : 30分で2000字書ける 長所   : 根性、体力、人懐っこさ 短所   : まぬけである 連絡先  : to.obonai@gmail.com 活動

    • ライフハック100個言う

      夜すんなり寝れるよう、日中はほどよく疲れが溜まるように動いた方がいい 早めに眠りたいときには、眠いやつの真似をするといい 大きいあくびをしたり、「ねむい」と眠そうな声で呟いたりすると、だんだん本当に眠くなる 眠れない夜でも、目を閉じてじっとしていればある程度体力は回復すると考えていい 意図せぬ徹夜が発生したときには、おなかに優しいものを食べたほうがいい 徹夜は意外と消化器に負担がかかるため 寝坊してしまったとき、それが大事な用事でないならば理由をごまかしてもいい そん

      • 「24時間生活するライブ」をやった感想

        6.28(金)に「24時間生活するライブ」をやった。もともとの思いつきや経緯などを書いた記事はこちらを見て頂くとして、だいたいどんな感じだったかを書いておく。 前日 仕事を終えて生活へ 「生活をするライブ」の前日、僕はそれなりに忙しかった。日中はネット番組の収録に出ていて、その後には出版社との打ち合わせがあった。電車に乗って都内をあっちへ、こっちへと往復。0時からの「生活」ライブに備えて、23:00頃に会場入りした。 23:00 スペースの特徴 生活ライブが行われる場

        • 人間の生活はライブたりうるか─2024.6.28 高円寺で「入れるVlog」をやる

          自分で言うことじゃないのだろうけど、僕は芸人として、だいぶ変わったことをやってきた。「事務所に所属しない芸人」というのもマイノリティ的な選択なのかもしれんけど、たぶん問題はそんなとこじゃない。 どっちかというと、制作会社が企画するあらゆるライブに自分から出ず、自分から業界と絡むことなく、ただただ勝手に単独公演をやり続けるというのが、かなりめずらしいご飯の食べ方なんじゃないかと思う。 でも実際、事務所無所属でお笑いで生きていくには、これはつまり、芸人としての自分のコンテンツ

        • 固定された記事

        九月とは何をしている誰なのか、コンテンツマップ

        マガジン

        • 息を止めて書いた
          44本

        記事

          『読む』ラジオ、知らないラジオ、『飲む』ラジオ

          フクロウじゃなくて人間だった 九月という芸名を名乗って久しい。人前でコントをすることと、時たまエッセイなど文章を書くことを生業としている。 「コント」とか「エッセイ」とか言うとかっこよく聞こえるけれど、正直に言って僕のそれらは人前でケツを出しているだけに等しい。たまに真面目くさったことを言うのも、だいたいその後でケツを出すためである。 意外にもメシが食えていて本当に意外だ。そんなもんが生業になる時代に生まれてよかったなと思う。鎌倉時代に生まれていたら、偉い人の前でケツ

          『読む』ラジオ、知らないラジオ、『飲む』ラジオ

          名古屋の夜をどうやって過ごすか 西宮の朝をどうやって迎えるか

          今週末はかなり忙しい。鬼の如きスケジュールである。なんてったって大量にライブがある。そうだ、ライブだ。ネットの発信ばっかしてると思ったか。そんなわけない。誰がそんな奴になりたいんだ。 そう、なにせライブが多いのだ。そのことをネットで発信させてくれ。 6.7(金)が名古屋での公演で、18:00からと19:45からの2回公演。新作を中心にコントを30本ほど披露する。(残席いくばくか。ご予約はこちらから) そのあと、6.8(土)には兵庫県西宮市での単独公演。同じく90分のライ

          名古屋の夜をどうやって過ごすか 西宮の朝をどうやって迎えるか

          モーゼになって「どうもー!」って言いたい

          お笑い芸人は「どうもー!」と言いながら舞台に登場する。 漫才師は常にそうだし、コント師もライブのオープニングでは「どうもー!」と言いながら登場する。僕はあの瞬間が好きだ。芸人の色気が出る瞬間の一つだと思う。 緊張感と期待感がある場の空間を、声一つで切り開いて、自分のものにしてしまう感じ。上手い人だと、本当に声が空間を切り裂いていくのが見える。そのたび、なんか「モーゼだな」と思う。 お笑いに限ったことじゃないけれど、好きなものをライブコンテンツで見るのは結構凄いことである

          モーゼになって「どうもー!」って言いたい

          「時代の文体」について考えている

          10年くらい前から「時代の文体」について考えている。 前史としての「テンポよく悩むキザ」文体 以降、僕のおおまかで雑で主観的な理解。あくまでも自分の近くにやってくる文章の文体の話であって、学術的な整理ではないことに注意。 まず、もともと文章の言葉は書き言葉がメインだった(はずな)わけで、そこからのずらしとして口語体での文章があった(はず)。 が、サリンジャー〜庄司薫〜村上春樹あたりの流行から、ちょっと流れが変わった。グッと口語体が流行った。あの辺のまんまの文体を使う人

          「時代の文体」について考えている

          くぐると何かがありそうな所をくぐる

          『雪国』の書き出しの凄さ 川端康成の『雪国』の書き出しは、たぶん「雪国であった」という述部が凄いのではなく、「国境の長いトンネルを抜けると」という前フリが凄いのだと思う。 「国境」というのは国と国とをまたぐ箇所であり、向う側にあるものへの想像力を掻き立てられる言葉だ。どこかの海の向こうの曖昧な地平線が見える。背の低い草が生い茂っているのが見える。飛び交う羽虫が見える。雄大な大地をズシンとえぐり取る大河が見える。なんか、起こりそう。 「長いトンネル」というのも、向こう側へ

          くぐると何かがありそうな所をくぐる

          コナン×マクドナルド「真実はいつもタツタ」が好き過ぎて悔しい

          最近、マクドナルド×コナンの広告が流れている。コナンのあらゆる回を混ぜてそれっぽくサンプリングしたみたいな、どこかあの頃のMADっぽい映像が流れたのち、チキンタツタを持ったコナン君が「真実はいつもタツタ!」と言う。 はぁ? 真実はいつもタツタ。マジで何言ってんだよ。どういう意味なんだよ。元ネタがコナン君の名台詞「真実はいつも一つ」なのはわかる。でもそれしかわからない。 言葉としてまるで何もかかってない。韻も踏んでない、駄洒落にもなってない、ダブルミーニングにもなってない

          コナン×マクドナルド「真実はいつもタツタ」が好き過ぎて悔しい

          インターネットに潰されないように、どうかご無事で

          九月と名乗って芸人活動をしている。養成所は出ていないし、事務所等にも所属していない。芸人じゃないと言われたらそうなのかもしれない。 活動の大半は単独ライブであり、実態としては「舞台中心の旅芸人」という感じだ。フラフラになりながら一人で各地を回り、なんとかライブで食っている。その傍ら、時たまこんなふうに文章を書いている。依頼が来て、各媒体でコラムやエッセイを書くこともある。書籍を一冊出版している。 以上のことは、僕について調べるとすぐに出てくる情報である。 さらに調べると

          インターネットに潰されないように、どうかご無事で

          物書きになる人生と、物書きにならない人生

          20代前半の頃、僕は「物書きになりそうな奴ら」と遊んでいた。全員いけすかない奴らだった。全員が変な服を着ていた。そして全員が見た目ほど変な奴じゃなかった。温かい、優しさとかのある奴ら。ただ変な服を着ていて、とっつきにくいだけの奴ら。ケレン味とハッタリとしゃらくささで生きてる奴ら。僕は彼らが大好きだった。 どいつもこいつもブログをやっていた。みんな気ままな日記や随筆、映画や文学の評論、詩や戯曲や小説などを書いていた。ご多分に漏れず、僕もブログをやっていた。僕は自分の書く文章が

          物書きになる人生と、物書きにならない人生

          「警察に行けばいい」とかみな言うが、警察署にはガチャ性がある

          「警察に行けばいい」はどこまで現実的か諸々の出来事から派生して、「何かあったらすぐに警察に行けばいい」という意見をよく見かけるようになった。そういう考え方は、どこまで現実的なんだろう。 この記事では「事件後に被害者は心的トラウマから事件を正当化しようとするから〜」みたいな、心理学的ケアの話はしない。そういうのはちゃんとした本を読んでくれ。 もっとずっとわかりやすく、警察署そのものにまつわる話である。 個人的な経験として、警察署にはガチャ性がある。確実にある。あっちゃいけ

          「警察に行けばいい」とかみな言うが、警察署にはガチャ性がある

          英語学習とインターネットの相関教育システム論 ─「ミーム英語」から「英語ミーム」へ─

          相関教育システム論? 出身大学の話はよく聞かれるけれど、そんなことよりもっと細かい専攻の話をしたい。ちょっと専攻の話をさせてくれ。 学生時代、僕が所属していたコースは「相関教育システム論系」である。したがって、履歴書のうえで僕の専攻は「相関教育システム論」となる。相関教育システム論、聞き慣れない言葉だろう。 それがどういう意味なのか、実は僕も知らない。僕に限った話でもない。在籍していた誰も知らなかった。なんせ、そんな名前の学問がないのだ。何を指すのかがマジでわからない

          英語学習とインターネットの相関教育システム論 ─「ミーム英語」から「英語ミーム」へ─

          「大学は勉強する場所だから、入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」という文の意味が、あんまりわからない

          「入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」 AO入試を導入する大学が増えてきたからだろう、「大学は勉強する場所だから、入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」という意見をよく目にするようになった。 僕自身は今後大学入試を受ける予定がなく、大学教員をしているわけでもなく、受験産業に関わっているわけでもない。当事者でもなんでもない。たかが制度の変更の一つ、「無関係に暮らしを営む」とひとたび決め込んだなら、そのまま柵から出んでいい群羊の一匹に過ぎない。 だが、あんまりにもその

          「大学は勉強する場所だから、入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」という文の意味が、あんまりわからない

          「なぜ学校に行かなければならないか」と聞かれたとしたら、どう答えるか

          ”mond”の僕のアカウント宛に来た質問文より。 ◀九月の回答(原文ママ)▶ 九月と申します。くがつと読みます。なぜ学校に行かなければならないか、僕もあんまり分からないまま、学校に行ったり行かなかったりして大人になりました。学校それ自体に対する疑問はずっと自分の中にあって、大学では教員養成ではないタイプの教育学部を選択しました。教育について、ちゃんと考えてみたかったんです。 在学中はオルタナティブ教育、いわゆるフォーマルな学校教育とは異なるような教育の在り方、スタイルに

          「なぜ学校に行かなければならないか」と聞かれたとしたら、どう答えるか