仲間じゃなくて家族感

5月頭にネットフィリックスの「シティーハンター」を見、
末には「帰ってきたあぶない刑事」を見、
「再現度がどうの」やら、「エンタメとして楽しめたから」抜きに、異様にどちらも良い仕上がりで、しかし何がどうで良いのか掴み切れずもやもやしていた。

いずれも30年余り前にヒットした作品で、元をたどれば昭和発とけっこう古い。もちろんタイムリーに見ていた自身にとっては今、新作を見たところで「昔から」こんな具合だったよなという印象で、そこを取り上げどうこうと騒ぐこともない具合だ。

ただ「昔から」と言った地点で、今では見ることが少なくなった部分であるということは自覚でき、
そこを半ば新鮮にさえ感じて良いと思っているのであるなら、
昔にあって今ないものはなんなのか、
言葉にすると大げさだが、
ノスタルジーの正体をどうしてもつかみたく、
ほぼひと月ずうううっと思案してきたわけなのである。

あいま、ヒントを探して人様のレビューや動画を見ている。
特に「帰ってきた」でよくみられるのは、変わらぬ主役お二人のカッコよさについて。「シティーハンター」も合わせたならコンプラ無視、もしくは時代に合わせ改められてギリギリをゆく「昭和のノリ」の痛快さだった。

コンプライアンスといえば、守れ公序良俗のイメージ。社会の常識、あるべきお手本の姿という厳格さがまず浮かぶ。
公のルールであり、社会のマナーだ。

守る作品が厳格過ぎてよそよそしい、窮屈なのは、ルールに縛られた作品自体が「社会」の縮図であるからで、家から一歩、外へ出た時の「わたしたち」が投影されているからだと思える。

ならコンプラが効いた作品と観客の、登場人物同士の距離感とは、「お外での、他人同士の振る舞い」に等しく、視聴者もルールに縛られた登場人物たちもそのとき集団は「仲間」の形態をとるし、実際そうしたハナシが多く、逸脱するとクレームが入るのではないかと思い浮かべた。

足掛かりにして、無視したマイルールがはばかる作品を考えたならばどうだろう。それは真逆と「オウチにいる時の家族間での振る舞い」ではないのかと行き当たっている。
この身内というユルい関係においては確かに、お外(公の場)で他人に対して行えば許されずとも、冗談に終わったり許容される行動は幾らもあると思える。

「コンプラ無視」とはそういうことで、

こうした身内感が成立するときクレーマーを呼ぶ嫌悪感は生まれず、むしろ安心感さえ得て「コンプラ無視」をエンタメと楽しめるのではないかと思った。

つまり「帰ってきた」も「シティーハンター」も、
社会を舞台にした他人同士が輪を成す仲間の物語ではなく、
オウチを舞台にした家族の物語だったというわけだ。
(作品と観客との距離感も、作中の登場人物の距離感も)
触れてノスタルジーを感じないわけがない。

そしてコンプラうるさい昨今の作品に家族感は薄く、
仲間は乱立すれども社会の他者、という緊張感はそこに伴い、
安心して逸脱できる家族にはとうていかなわず、
それを令和の現在に復活させ、華麗に見せてくれたところがなにより視聴者の心に刺さったのではないかと感じている。

嗚呼すっきり。

今後両作のように、スッとこちらのプライベートゾーン、脇へ潜り込んで来て、お茶目にやんちゃをしでかすような作品は生まれるのだろうか。
そうも人間臭い活劇、場が生み出されることはあるのだろうか。
昭和にあった人と人の距離感が乏しい今、構築できる人材はいるのだろうか。

だから双方を見たあと、久々に良いものを見たな、と感じたのだと考える。



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