【戦略の立て方と分析】織田信長と武田信玄の戦略の違い

経営コンサルをしていた頃の相談の1つに「とにかく東京に進出したい」というものがあった。

理由を訊くと「やっぱり東京じゃないと」「東京に出ないと本物じゃない」「地方じゃ情報も限られてるし」といった特に具体性がないもので、単なる東京への憧れ、10代の若者が抱くような東京に行けばもっと上へ行けると思ったのにな・思っているのにな、というものだった。全国展開をしたい60代の経営者だったのだが。

自社のサービスを地方から全国展開する場合、戦略的に言えば東京へ攻め上るのは地方を平定してからが正しい。地方の田舎のノウハウと大都会のノウハウは違うのだ。例えば単店舗・小数店舗なら東京の方が稼げるだろう。だがノウハウを展開できる市場で言えば、地方8割:大都会2割で市場は地方の方が大きいのだ。
 
東京で確立したノウハウを全国に横展開しようにもそれは大都市に限られる。あえて大都市を避け地方へ横展開する方が企業は大きくなれる。念の為に書いておくと、これは交通網や人口数などの物理的条件が加わる商売であっての話で、ネット関連はまた別の話。つまり東京に出て本物・東京に出れば稼げる、というのは幻想に等しい。

これを言い換えると線と面の戦略の違いと言える。

戦国時代、乱世を平定するという意識があったのかどうか知らないが、京都への上洛を目指した武将は多い。代表的なのは武田信玄と今川義元、そして織田信長だ。両方とも信長に阻まれている。信玄と義元は上洛さえすれば自分の実力で日本を統治することができるという幻想を抱いていたと言っていい。だが実際には実力者が上洛しても乱世は終わらなかった。それは信長が上洛してもそれこそ信長包囲網が出来てしまったことからも解る。

そもそも最初に上洛したのは上杉謙信だった。彼の目的が何処にあったのか知らないが、少なくとも兵を伴って上洛しても何もできなかったし、しなかった。行動を見ると謙信は天下平定など考えもしなかったようではあるが、たとえ考えたところで謙信には何もできなかっただろう。

では信長はどうだったのかと言えば、信長も当初は上洛すれば良しといった感じがあった。と言うより信長の上洛前の戦略と上洛後の戦略に大きな違いがある。それが線と面の戦略の違いだ。その戦略の違いは浅井長政と足利将軍の裏切りから来ていると思う。

名古屋から始まった信長の上洛は斉藤道三がいた岐阜を別として京都と名古屋をほぼ線で動いていた。その後も朝倉討伐までは線での行動。つまり自分の領地は名古屋と岐阜くらいだった。しかし浅井の裏切りを発端に面での戦略に変更、自分の直轄支配地域を増やして安全圏を確保しないとそれ以上の拡大行動は危険という認識に変化した。上洛戦略から支配地域の拡大戦略への変化である。

この変化に対応できていなかったのが武田信玄及び勝頼だ。とにかく上洛上洛なのである。面に対して線の戦略。武田信玄や勝頼に聞いてみたい。上洛が成功したとして、その後どうするつもりだったのかと。勝頼はともかくとして信玄の場合、上洛後は信長と同じように支配地域拡大戦略に変換しただろう。信長より前に上洛できていればそれで良かった。が、実際には信長が先に上洛し、先に戦略転換を行い、先に支配地域を拡大していた。

信玄がこの変化の違いを理解できていたならば(そして寿命が続けば)上洛を目指すにしても線ではなく面での上洛を行っただろう。即ち駿府・浜松・名古屋・伊勢・岐阜と支配地域を塗り替え(北と東は上杉・北条との同盟を結ぶのでそのまま)、その後に信長と決戦。実際、家康を蹴散らしていたのでその実力はあった。最低でも家康を滅ぼし浜松まで支配地域化すれば良かった。だが彼は急ぎ過ぎた。自分の年齢と体調の問題も考えて焦っていたのかもしれない。それでも支配地域を甲斐から岐阜まで拡大しておけば勝頼に世代交代した後もむざむざと武田家消滅にはならなかったかもしれない。

戦国時代も現代もじっくりと支配地域を拡大する方が近道の場合が多いのだ。

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