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安彦良和監督「ククルス・ドアンの島」で思うガンダムは兵器だという当たり前の事

1.どうしてククルス・ドアンなんだろう?

「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」がアニメ化、さらに原作者の安彦良和先生が総監督と聞いた時も、「最近のアニメは、じっくり作るから、どうなんだ? ご存命の間に完結するの?」と、失礼ながらも正直思ってしまったのですが、前々から制作が進んでいたのか、順調に完結しました。

「これで最後かな~、でも、このクオリティで再現されたなら、先生も満足だろうなぁ」などと思っていたら、同じく安彦良和監督で、ククルス・ドアンを題材にした映画が発表。

単純なドンパチではなく、人間ドラマも入れる「器」としては、確かに有効なんでしょうが、しかし御年74歳。
これからも活躍はして欲しいですが、どうしたって、キャリアの総決算を意識せざる得ないわけで、実際、安彦先生も、そのように言及していることが多く、その総括として、ククルス・ドアンという、丁寧に「ファーストガンダム」を再解釈した「ORIGIN」版でも触れなかったエピソードを敢えてもってくるとは。

どんな風にまとめているのか、期待を胸に、Dolby Cinemaにて、鑑賞して参りました。
(とは言うものの、通常版と見比べたわけではないので、Dolby Cinemaが、どんだけスゴいのか、僕の目と耳ではイチマイ良く分かりませんでした・・・・・)

2.悲惨な戦争を描く一方で、ガンダムはカッコよく描かなくていけない

ウクライナでの戦火に影響されてでしょうが、ガンダムUCでの台詞がお寺に掲示されているというので、けっこう話題になりました。
歴代のガンダムは、戦争の悲惨さを常に描いてきた作品です。
ただ、「はだしのゲン」「この世界の片隅に」のように「戦災と庶民」ではなく、ロボットアニメというジャンルである以上、「兵士の視点」、それも、現代風に言うと、「少年兵(少女兵)の視点」であり、否応なく巻き込まれてしまった戦争において、人と人が殺し合う悲惨さを描いてきました。

言わずもがななことですが、「ファーストガンダム」は、主人公を、それまでの素直な熱血漢ではなく、屈折した根暗な少年としたことが画期的だとされています。

「ガンダム」がリアルロボットと呼ばれているように、主人公にリアリティを持たせ、憧れることはないが、共感できる存在としたことで、思春期の視聴者は、自らをオーバーラップさせることが容易になりました。
そして、「大人たちが起こしたむごたらしい戦争」という設定も、反抗期の少年少女にとっての外界、「大人たちがつくりあげた汚い現実」と同一視できるわけで、10代から20代をメインターゲットにするアニメにとっては、有効な物語構造であり、だからこそ、アレンジはされつつも、「エヴァンゲリオン」を経て、未だに綿々と活用されています。

「ガンダム」における主人公は、最新のモビルスーツを手に入れることで、汚い大人たちと対等に渡り合える「力」を得ます。
かつて、「10代のカリスマ」と言われていた尾崎豊が美青年だったように、非力な少年少女に力を与える存在であるのだから、そこに「美」も求められるわけで、そもそも、ロボットアニメという娯楽作品である以上は、スタイリッシュさは必須。

しかし、「戦争の悲惨さ」を描く一方で、その道具である「モビルスーツ」や、それに乗って人と人が殺し合う「戦闘シーン」は、カッコよくなければならないわけで、本来であれば、この2つは相反する要素です。

映画「機動戦士ガンダムF91」のラスボスは、住民の虐殺を図った鉄仮面(カロッゾ・ロナ)でしたが、エンドロールの本当に最後、左側からガンダムF91の頭部、右側から鉄仮面の仮面があらわれて、最終的にはガンダムの右半分、鉄仮面の左半分が融合するかの如く並んで終わります。

F91

最初に見たときは、善と悪を一緒くたにしている表現に戸惑いましたが、後に思ったのは、鉄仮面のカロッゾは、コスモ貴族主義を実現する為に強化された人間であり、娘であるセシリーは、彼を「機械」だと嫌っている。
「ガンダム」も兵器であり、当然「機械」なわけで、それ自体には善も悪もない。
平たく言えば、「使い方次第」であり、劇中でも、主人公が操るF91が、鉄仮面の乗るラフレシアを倒すけど、物語は、そこで終わらないで、ガンダムに秘められた力でセシリーを助け出します。
映画「F91」では、ガンダムを人殺しの道具ではなくて、人命救助の役割を与えて、エンディングとしているわけで、ロボットアニメのジレンマが垣間見える気がします。
(「Z」や「ZZ」では、ラスボスを倒してエンディングでしたが、「ファースト」や「逆襲のシャア」、これまでのシリーズを強く意識した「UC」などでは、ロボット対ロボットで物語の決着はなく、ニュータイプ能力の発動でエンディングを迎えていたのも、この「ジレンマ」なのかなーと思ったりします)

3.風立ちぬ、いざ生きめやも

宮崎駿監督の最後の作品・・・・に、なるはずだった「風立ちぬ」。(もちろん、これからもバンバン作品をつくってもらいたいです)
「平和主義」と「兵器好き」の矛盾を追求した結果、これまでの作品では、なんらかのハッピーエンドが提示されましたが、「風立ちぬ」はビターな終わりを迎えました。

主人公の堀越二郎は、ゼロ戦開発という「公」の面においては、戦争遂行の歯車を担ったものの、それは国土を焦土とさせて終わり、また、「私」の面においては、妻を病気で亡くすという公私共に報われない人生として描かれて、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉にあるように、それでもなお生きていかなくてはならない人生のはかなさが描かれていました。

そして、どう取り繕うとも、「兵器は兵器」であるという結論だったように、僕には思えました。

「ククルス・ドアンの島」の劇中、アムロが見る夢の中では、父は、ガンダムに乗って戦うことを肯定し、母は、兵器で人殺しをする息子を非難しています。

所謂「男性性」と所謂「女性性」の対立であり、どうあがいても、暴力性が内在する「兵器」と、「平和主義」は相容れないわけで、無理に一緒に煮込んでも、「悪夢」か「悲劇」になるしかなく、「ククルス・ドアンの島」では、ククルス・ドアンとアムロ・レイという二人の主人公を用意して、別々の結末を用意したんだなぁーと思ったりします。

4.兵器としての禍々しさ(少々ネタバレ)

映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」では、観客の期待に応えるべく、「ORIGIN」よりも、さらにアップグレードされたモビルスーツ、及び、戦闘シーンとなっていました。

現在の技術を結集した、見事な「映え」だったのですが、一方、特に、終盤にアムロがガンダムに乗り込んで以降は、戦闘の非情な側面が強く描かれていました。

ガンダムの足が見えているだけの場面で、敵モビルスーツが、覆っている幕を取ろうとした瞬間、コックピットを一撃でやられるという流れはホラー映画的演出で、そのまま、走って逃げる生身の敵パイロットをガンダムで踏み潰すという卑怯さは、とてもじゃないけれども、ヒーローロボットのする戦い方ではなかったです。

窮地に陥ったククルス・ドアンを助けるべく登場した際は、時代劇調のケレン味たっぷりだったのですが、「待ってました!」であると同時に、影で覆われたシルエットは禍々しくもありました。

かつて、「アフター6ジャンクション」にて、春日太一さんが、「ガンダムと剣劇」について語られていましたが、今作「ククルス・ドアンの島」は、後先が逆になってしまうのですが、まさに、その説を補強するかのような内容でした。

ククルス・ドアンとの序盤の戦いにおいて、アムロは、ビームライフルだけでなく、シールドも破壊され、だから最終戦では、ビームサーベルの二刀流で挑むことに。

遠方から打ち合うのではなく、両者近距離で対峙してのバトルは、「逆襲のシャア」で最後の最後は殴り合っていたように、より戦いの暴力性が鮮明になっており、さらに、「卑怯」とは言わないまでも、足場を活かした戦い方も、やっぱり爽快さや、ヒーローらしさが薄い勝利でした。

5.ヒーローとは

「ヒーローもの」において、主人公は「善」の象徴であり、だからこそ、その執行の為に、もっとも「強さ」を求められる存在、そしてエンターテイメントであるが故に「美」も兼ね備えています。

その結果として、平和を求めるが故に、作中において、もっとも数多く、美しく人を殺しているのが主人公という、奇妙な倒錯が起こったりします。

そのジレンマを解消しようとして、「ダークナイト」では、恋人を殺されてもバッドマンは不殺を貫き、最悪の暴力から一線を引いていました。(アニメ「UC」のバナージも同じですね)

また「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」では、ヒーローこそが人間、それが悪人であっても信じなくてはならぬという信念に至り、敵であっても排除するのではなく包摂し、さらには更生に導くというプロセスが取られました。

「ククルス・ドアンの島」におけるククルス・ドアンは、はっきりと説明はされないものの、どうやら戦争で民間人を巻き込んでしまったことへの罪滅ぼしとして、無人島で孤児の面倒をみながら、ジオン軍による大量破壊兵器の無効化を図っている。
その二つの目的の為に、「鬼に逢うては鬼を斬り、仏に逢うては仏を斬る」とばかりに、ジオン軍・連邦軍、関係なく、島に上陸した兵士を排除・・・つまりは殺している。
ラストにおいて、アムロとの共闘する際には、子供たちの為なら、味方をも殺せるか? とまで迫っている。
ドアンにしてみれば、もうジオン軍も連邦軍も、戦争という悲劇を生む元凶ということで同列のようです。

それに対して、アムロは、孤児たちを守るというポジションには賛同しているけれども、味方を裏切ってまでという覚悟を示すことは出来ない。
(単純な話、ホワイトベースにも孤児がいるわけで、「はい、そうですね」とは言えないのも当然ですが)

その代わりに、最後の強敵を排除する役目を負うことになるのは、ドアンではなくアムロ。
また、ドアンを戦火に巻き込むことになる所謂「ドアンザク」を廃棄するのもアムロでした。

こうしてドアンが戦いから解放される一方で、アムロは、次なる戦地へ向かって行くシーンで終わりを迎えます。

アムロ・レイは、「ファーストガンダム」だけでなく、「Z」にも、ちょこっと登場、そして「逆襲のシャア」まで戦いに身を投じることを、我々観客は知っているわけで、そのことを思うと、戦いから降りることの出来たドアンとの対比は鮮やかなラストですし、個人的には、図らずしもアムロは、ドアンの業(ヒーローの宿命)を代わりに背負ったようにも見えました。

そして、本作の最後にアムロが向かっているのは、マ・クベのいるオデッサ。
オデッサと言えば、ウクライナ。
偶然とは言え、フィクションの住人のアムロが向かう地が、リアルな戦争が行われている地というのも、なんとも皮肉な話です。

6.キャリアの総決算

キャリアの総決算として、宮崎駿監督が、「兵器が好きだけど平和主義」の矛盾について追及し、安彦良和監督は、「ガンダム(兵器)で導かれる平和」の歪さについて語っているわけで、似通ったモチーフになったのは、面白いですね。

ガンダム作品は、今後も次々と続編・新シリーズがつくられていくことでしょう。
登場する新しいガンダムは、その時代に合わせてアップグレードされたスタイリッシュなフォルムをまとい、人々は、それに熱狂しつつ、ガンダムシリーズ特有の悲劇に酔いしれることになる。
そういう、ほぼ確実な未来が予見される中で、敢えて、シリーズの元祖である「RX-78-2」の兵器としての危険な側面を描き、その兵器から逃れられない主人公・アムロ、一方で、その舞台/構図から降りることが出来た(降ろしてもらった)男・ドアンを登場さているのは、戦争を批判しながらも美しく(雄々しく)描かなくてはいけない物語に内在する危険性について触れつつも、これを最終作と位置づける監督自身が、ドアンと自分を重ね合わせねたのかなー、と思ったりもしました。

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