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「十三機兵防衛圏」をやって思ったゲームで物語を語るということ(ネタバレなし)

ゲームで物語を語る

「物語」を語る手段というのは、かつては紙媒体を主軸にする他なかったけれども、テクノロジー進化と共に、「音」や「映像」も残せるようになり、そして、今では、TVゲーム(コンピューターゲーム)も一つの表現方法として確立しつつあります。

そこまで深い知識があるわけではないので、「pong」や「スペースインベーダー」といった、現在から振り返ると、非常にミニマムでシンプルだったTVゲームが、どのようにして豊かな物語性を獲得していったのか詳述することは出来ないのですが、ただ、日本を代表するゲームクリエイターの堀井雄二氏の足跡を辿ると、「ポートピア連続殺人事件」や「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」といったアドベンチャーゲームからキャリアがスタートしているのは、当時のパソコンのスペックにおいて、複雑な物語をつくろうとすれば、自然と「文字」と「絵」に頼った静的な作品にならざる得なかったのは想像に難くないです。

以後、テクノロジーの進化やノウハウの蓄積もあり、アドベンチャーゲーム以外でも、特にRPGをメインの舞台にして物語が語られるようになりましたが、対象年齢が幼児から青少年ということもあり、「年若な主人公が、いくつかの試練を乗り越えて成長し、最終的には大いなる悪を退治する」というパターンがつくられ、今も、その大枠からは抜け出すのは難しく、よく言えば「安心」「安定」「定番」、悪く言うと、「マンネリ」な物語になってしまっているように思えます。

さて、もう一人、日本を代表するゲームクリエイターの小島秀夫監督を例に取れば、そのキャリアのスタートは、(後に)大ヒット作となる「メタルギア」であり、「メタルギア2 ソリッドスネーク」もつくられましたが、しかし、アクション要素が薄めとは言え(元祖ステルスゲームだからね)、大別すればアクションゲームに分類される二作品は、一部の受けは良かったものの、スマッシュヒットに収まったという評価が正直なところだと思います。

小島監督の出世作と言えるのは、MSX2「メタルギア」と、同じくMSX2「メタルギア2」の間につくられた「スナッチャー」になるのでしょう。
「メタルギア」が、MSX限定で終わったのに比べて(ファミコン版もあるにはあるが)、「スナッチャー」はpc88やMSXだけでなく、後に、PCエンジン、メガCD、PS、SSに移植されたことからも分かるように、大ヒット作となりました。

「メタルギア」が当時、広範には受け入れられなかった要因は、いくつもあるのでしょうが、小島秀夫「監督」と言われるように、その映画的な手法は、当時のハードにおいては、アドベンチャーゲーム形式でしか表現できなかったことも一つだと思われます。

そしてアドベンチャーゲームの「ポリスノーツ」を経て、静的ではなく、動的なゲームにおいても、小島監督の世界観が十分に描き切れるようになったのは、初代PSにおける「メタルギアソリッド」でした。

PSの登場

初代PSの登場で、ゲームはポリゴン時代に突入し、媒体として、後付ではなく、デフォルトでCDロムの採用、これまでとは比較にならないリッチで、かつ立体的な表現が可能になりました。

二頭身、三頭身のキャラクターで描くには限界のあったテーマも、八頭身キャラによるドラマが可能になり、グッと大人びた物語も提示できるようになり、PS版「メタルギアソリッド」も、ハードの進化が生み出した作品でした。

初代PSの代表作である「FF7」。
多くのスピンオフを生んだだけでなく、リメイクとして発売された「ファイナルファンタジーVII リメイク」が、強気な分作となったことからも分かるように、今なお多くのファンを惹きつけている画期的な作品です。

フルポリゴンで表現された世界観は衝撃的で、「年若な主人公が、いくつかの試練を乗り越えて成長し、最終的には大いなる悪を退治する」というオーソドックスなラインから逸脱はしていないものの、主人公が苦悩する姿は、既存のRPGよりリアルに描かれ、「メタルギアソリッド」と同じく人間ドラマが深まっていくのが実感できました。

が、物語に奥行きが生まれるというのは、一方で、ムービーシーンが多用されるという弊害も生み出した。

AVにおいて、冒頭のインタビューシーンを「見る派」と「見ない派」がいるように、ゲームにおいて、ムービーシーンを「見ない派」は一定数おります。
僕個人としては「見る派」ではあるものの、彼らの主張、「ゲームがしたいからゲームをしているのであって、ムービーは、どうでもいい」というのも、共感したくなるくらい、確かに、せっかくゲーム世界に入り込んでいるのに、ムービーシーンが始まって興が削がれるという体験は、決して珍しくはないと思います。

これまでの既存メディア「本」「映画」「漫画」等々とは違い、ゲームをゲーム足らしめているのは、ユーザーが一方的な受け手ではなく、(結局は製作者側の手のひらの上で踊らされているにしても)その世界に介入できること。
しかし、ゲーム途中に挿入されるムービーシーンは、製作者側の一方的に押し付けとならざる得ない訳で、ゲームの本質とは相容れないものだったりします。

「ICO」や「ワンダと巨像」(「人喰いの大鷲トリコ」は、やってないです)といった、言語やムービーに頼らず、ゲームシステムとストーリーが不可分に結合した作品もあります。
人々の想像性を刺激する高い完成度のゲームではありますが、「言語」に依拠しないと、どうしても「絵本」的な物語に限定されるわけで、「おとぎ話」「夢」「寓話的」な内容となり、「ICO」や「ワンダと巨像」のようなゲームシステムで、「現実社会の反映」や「重厚長大」を求めるのは、いささか難しいと思われます。

ご褒美ムービー

「ムービーシーン」と「ゲームの本質」とは相容れないと書きましたが、しかし、「FF7」を最初にプレイして、「うわっ、ムービーが始まったよ」と強烈な拒否反応を示したのは少数派で、多くの人は、「スゲー」と単純に驚いていたと思われます。

後に、「なげーよ」と忌み嫌われる召喚獣の登場シーンも、少なくとも初回については、「おぉ」と見入ったものです。(上の動画は、FF8。召喚獣のシーンが長いことで定評があります)

今でそこ、「初代PSレベル」というのは酷評フレーズですが、まだまだポリゴンが珍しかった当時では、「FF7」におけるムービーにしろ、召喚獣の登場シーンにしろ、製作者側としては腕の見せ所であり、そして、ユーザーとしても先進のテクノロジーを自宅にて目の当たりにする絶好の機会でした。

当時から、ゲームのテンポを損なう召喚獣シーンには賛否両論がありましたが、当時としては物珍しく、その希少性でもって「見せ場」となっていました。
ムービーシーンにしても、数多の戦闘を経て、長い道のりを踏破し、強敵を倒したことで、ユーザーが得られる「ご褒美」としての意味が十分にある時代でした。
しかし、テクノロジーの進歩に比例して、ポリゴン表現自体に珍しさはなくなり、なんなら最近ではドット絵表現の方が貴重になってしまい、さらには贅沢にすら感じられることもあり、「ご褒美」的な意味合いは、どんどん薄くなっていると思われます。

そうではありながらも、やはりムービーシーンがなくならないのは、ドラマや映画といった映像表現において、説明台詞がなくならないように、「重厚長大」な物語を志向すれば、「見せ場」だったり、「説明」としてのムービーシーンは、どうしても必要なのも現実です。

もちろん、クリエーター側も、それは分かっており、「FF7」にしても、ムービーシーンでもキャラが動かせたし、他のゲームではQTEを挿入したり、プレイヤーが自由にカメラ視線を動かしたりと、どうにかして一方通行にはならないように模索がされましたが、しかし、周回プレイが前提なのに、ムービーがスキップできず、何度もQTEを強いられるといった本末転倒なゲームもあり(「メタルギア ソリッド ピースウォーカー」のことです)、なかなか「これ」といった解決策はないようです。

アドベンチャーゲームとハードの進化

アクションゲームやFPS、TPSといった動的なゲームにおいて、大きな物語を盛り込もうとすると、説明台詞的なムービーシーンが入らなくてはならず、それが、うまくゲームシステムと融合していないのではないかと書いてきました。

ならば、いっそ、物語を進めることがゲームシステムの根幹に据えられているアドベンチャーゲームなら、もっと素直にゲームを楽しめるのではないか? とも考えられるのですが、実際には、また違った難しさがあるように感じられます。

そもそも、ムービーシーンが嫌われるのは、「ムービーが見たいなら、映画やドラマを見る。ゲームがしたいから、ゲームをやっている」という至極単純にして、もっともな理由があるわけで、「文字」と「絵」によって世界観を表現するアドベンチャーゲームにしても、「文字」ならば小説、「絵」ならば絵画/写真、「文字」と「絵」ならば漫画を読めばいいわけで、「ゲームだからこそ語れる物語」というのは、なかなか難しいのではないかと個人的には思ったりします。

初期のアドベンチャーゲームは、一応は、「推理」や「選択」がユーザーに委ねられているという体裁にはなっているけれども、結局は、コマンドの総当りで、フラグを発生させて物語を進めるというのが、スペックや容量といった物理的な問題もあって定番でした。

テクノロジーの進化で、表現手段が多様化し、単純に「使える色数が増えた」とか、「テキストが(ほぼ)無限に収納できる」といっただけでなく、「実写」「アニメ」「フルボイス」等々、アドベンチャーゲームにおいても、リッチなコンテンツを盛り込むことが出来るようになりましたが、しかし、前述したように、実写が見たいなら実写ドラマ/映画、アニメが見たいならアニメ、ボイスが聞きたいならオーディオドラマがあるわけで、今なおゲームだからこその物語というのは、模索が続いているように思えます。

「かまいたちの夜」は、いくつものシナリオを踏破・コレクションすることを楽しむというのは独創的、「逆転裁判」は単純な推理ものではなく法廷でのバトル要素を入れているのはゲームらしく、「L.A.ノワール」は、さすが「ロックスター・ゲームス」、第二次世界大戦直後のL.A.をオープンワールドで再現した力技には、驚嘆しました。

「逆転裁判」は初期しかやってないので、最新作は違うのかもしれませんが、推理パートは往年のコマンド総当りと大差なく、法廷パートも、純粋に推理をぶち当てるというよりは、製作者側の思惑通りに進めなくてはならないと感じ、個人的には(楽しませてもらったけれども)窮屈さも覚えました。

「L.A.ノワール」については、オープンワールドが、当時の雰囲気の再現には成功しているけれども、ゲーム自体には、ほとんど意味をなしておらず、むしろスムーズはゲーム進行(移動)を妨げる要因だった思い出が残っています。

売りであった尋問についても、なにを選んだら「正確」なのか判然とせず、それでいてストーリーは進んでしまうので、最後の最後まで置いてきぼりなことも多々あり、それこそ推理を楽しむというよりは、やはり製作者側の思惑を忖度しなくてはいけないように感じられて、どうにもこうにも、力作の割には、肝心のシステムは消化不良だったように思えます。

エロゲー/ギャルゲー/恋愛ゲーム

そんなこんなで、結局は、アドベンチャーゲームで、もっとも相性が良いのは、「エロゲー、ギャルゲー、恋愛ゲームなのか?」ということ。

今でこそ、Steamを筆頭に、簡単にパソコンゲームが手に入る環境が整い、コンシューマ機を凌駕するのではないかとも言われています。
が、かつて、「パソコンゲーム」と言えば、イコール「エロゲー」、「エロゲー」と言えば、イコール「アドベンチャーゲーム」ばっかり、なんて時代が、(おそらくは日本限定で)ありました。

「エロゲー」において「アドベンチャーゲーム」が主流だったのは、単純に開発が容易だったという身も蓋もない事情があったのだと思われます。

が、その他に、「エロ」にしても、「恋愛」にしても、結果が重要だけど、やはり「文脈」も必要であり、「脱衣麻雀」やら、それに類する、麻雀の代わりに「クイズ」や「格闘」というエロゲーもありましたが、主流は、「アドベンチャーゲーム」でした。
「文字」と「絵」で感情や状況を理解(努力・苦労)し、そんな試行錯誤の末に、「女体」なり「彼女」という「ご褒美(の絵)」が得られるという一連の流れは、「アドベンチャーゲーム」という器が最も適していたようです。

十三機兵防衛圏

そこまで熱心にゲームをする人間ではないのですが、それでも、「十三機兵防衛圏」が秀作だという噂は耳に入って、「やってみたいけど、なんかダルいなー」という程度で躊躇していたら、Switch版が発売。
寝転がってやれるなら気楽でいいか、と買ってみました。

結果から申しますと、非常に面白かったですし、ゲームにおいて物語を語ることの、一つの回答なんだろうなぁと感心させられました。

このゲーム、「シミュレーション」と「アドベンチャーゲーム」が融合しています。
シミュレーションパートについては、それなりに凝ったつくりで、やりこみ要素もないわけではないけれども、「ファイアーエンブレム」や「トライアングルストラテジー」レベルを期待すると、肩透かしを食らうと思います。

感覚的には、シミュレーション3割、アドベンチャー7割くらいです。

では、シミュレーションパートが蛇足かと言えば、そうでもなく、「さんまの名探偵」でもミニゲームがあったように、また、「ポリスノーツ」でも爆弾解体やら銃撃ゲームがあったように、アドベンチャーパートに飽きて来た時の、程よい閑話休題となっており、それでいて、ちゃんと世界観の補強になっています。
僕はノーマルでクリアーしましたが、難易度は自由に変更でき、また、それによってペナルティはないらしいので、要らない人は、カジュアル(イージー)で挑んでも、全く問題はありませんし、一回の戦闘自体は、それほど時間を要しませんので、シミュレーションが苦手・嫌いであっても、苛立つことはないと思います。

一つ一つの区切りが短いというのは、アドベンチャーパートも同様で、このゲームの特徴と言えるかも知れません。

この物語は13人の少年少女の群像劇で、ユーザーが任意のキャラクターを指定して、個人個人のお話を見ることが出来ます。
一回に語られるエピソードは短く、それでいて毎度毎度ご丁寧なことに、ちゃんとクリフハンガー
一気に続きを見ようとしても、途中でストップがかかり、別キャラクターのエピソードを見なくてはならず、そして各々のエピソードには、別の少年少女が登場しており、それによって奥行きと広がりが生まれるという仕様なんだけれども、ストーリーの理解が深まるようで、語られる時系列がバラバラ、さらに時代設定もバラバラ、外見と名前が同じなので同キャラかと思えば別人格、外見が違うけど実は同一人格、と見せかけて、やっぱり別人格と、とにかくミスリードを誘う罠が、これでもか! と満載で、「おいおい、どうなっているんだ」と思っても、別のキャラのストーリーを追っている内に、すっかり前のキャラの話を忘れてしまって、それでいて、意外なところでストーリーがつながり、と言った感じ。

その他にも、意味深なシーンが差し込まれて、「ははーん、こういう未来が待っているのね」と解釈したところで、しばらくすると、自分の考えが間違っていたことに気付かされ、新しい予測を立てたところで、またしてもちゃぶ台返し。
とにかく、どんでん返しの繰り返しで、一体全体、どういうお話なんだ? と混乱させられるのですが、ただ、物語の骨子自体は、日本お得意の「ジュブナイル」+「SF」であり、その「SF」設定も、「終わってみれば」という前置きは必要になりますが、そこまで複雑ではなかったです。(あくまでも、「そこまで」ではありますが)

また13人の少年少女にしても、とっつきやすいビジュアルであり、それでいて、それぞれ容易に区別できる外見、そして性格も、非常に安定感のあるジャパニーズアニメ型のキャラとなっており、お話の運び自体は複雑怪奇ではあっても、他の要素で挫折しないような配慮が感じられます。

各エピソードにおいて、13人の中の1人の少年、または少女を操作することになるのですが、ぶっちゃけ自由度は低いです。
が、代わりに、煩雑な操作もないです。

また、この作品は、マルチエンディングではなく、誰でも同じラストにたどり着くことになります。ユーザーに委ねられているのは、ストーリーを紐解いていく順番「だけ」とも言え、一歩間違えると、ボダンを押すだけの「ポチポチゲー」という評価になり兼ねないのです。

そういう危うさを秘めながらも、物語に没頭できるようにアドベンチャーパートのゲームシステム自体はシンプルであり、お話自体は七面倒臭くても、一区切りまでは極々短い。
脱落しない程度に、うまーく情報を小出しにし、プレイヤーを混乱させたままでも、プレイを続けさせるだけのモチベーションを維持させ、それでも飽きたなら、ミニゲーム的なシミュレーションに逃げることが出来るようになっており、この一連の巧みなチューニングは、見事なバランスです。

ビジュアル、特にアドベンチャーパートは、このゲーム独特。
見せ場では奥行きのある表現もされるのですが、基本的には舞台や紙芝居のような左右にしか行き来出来ない2Dで表現されています。
印象的な光源処理で、つくりこまれたシーンは多いのですが、バリエーション豊富というわけではなく、PS4からSwitchに移植されたことからも分かるように、バリバリにマシンスペックを要求されるようなCGではなく、あくまでもキャラクターが違和感なく溶け込めて、世界観を崩さないように配慮されていることが、逆に、製作者側のこだわりが感じられました。

大きなお話しをつくろうとすると、どうしても「力み」が入って、あれもこれも投入されて、結果としてチグハグになってしまいことが往々にしてありますが、「十三機兵防衛圏」で感じたことは、ゲームを楽しんでもらう為に、「ストーリーは複雑でも、ゲームシステムはシンプル」ということ。

「言うや易し」ですが、前述したように、ポチポチゲーと批判される可能性は十分にあり、実際、Amazonのレビューを流し読みしてみると、ストーリーに面白みを見出だせなかった人は、そのような評価になっているのを見受けますが、総体としては、製作者側の狙いは成功だったようです。

PS4でも売れて、Switchに移植されるくらいですから、アニメ化やコミカライズ、ノベライズのお話しがあって当然でしょう。
ストーリーを整理して、時系列も順番通りに並べ替えてしまえば、出来なことはないと思われますが、それをやってしまうと、ゲームで体験できたグチャグチャなお話しが、時に飛び跳ねてしまうこともありながらも、徐々に一つに集約されていく快感は損なわれてしまうわけで、では、ゲームと同じように、あっちこっちに散らばったまま物語を進めるのは、かなり難しだろうなぁと想像してしまいます。(どのように再構築するのか、見てみたいですが、賛否両論が飛び交うだろうなぁ・・・・)

「終わってみれば」という前置きを再びつけますが、俯瞰して見ると、「あの映画っぽいなー」とか、「あれの影響だろう」とか思ったりします。
(緒方と如月の関係ですが、「スクールランブル」の播磨と沢近だよね?)

ただ、「十三機兵防衛圏」の白眉は、唯一無二のストーリーというよりは、TVゲーム(コンピューターゲーム)という器でしか提示できない物語の語りであり、それこそが、このゲームで体験できる「オリジナリティ」だと思います。

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