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#サッカー日本代表観戦記 まとめ

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11月13日・18日に国際親善試合を戦うSAMURAI BLUE(サッカー日本代表)を応援するお題企画「#サッカー日本代表観戦記」をはじめます! 試合のレビュー・プレビューはも…
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#Jリーグ

どんな時でも俺たちがそばにいる

2002年、日本と韓国で開催されたサッカーワールドカップ。 注目が集まった日本代表のメンバー発表で、背番号10番として名前が呼ばれたのは、サプライズ選出の中山雅史だった。 有力候補だった中村俊輔は、落選した。 原宿の大きな看板は10番の俊輔なのに。 「W杯開幕迫る!」と謳われたテレビやサッカー雑誌では、俊輔はメンバーに入る前提だったのに。 当時小学5年生の僕は、俯きながら記者会見をする俊輔の姿を、テレビ越しに呆然と見つめていた。 初めて日本がワールドカップに出場した19

ありがとうの「カズダンス」

3.11。 日本人にとって忘れられない、いや、決して忘れてはいけない特別な日。 あの日、皆さんはどこで何をしていましたか? 2011年3月29日。 その日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチが大阪の長居スタジアムで開催された。 それぞれの想いを抱えたままスタジアムに集まった観客は40,613人。 その中の1人が、まだ中学生の僕だった。 当時の僕は、北海道の田舎町に住む中学生。 クラブチームに通うサッカー少年でした。 あの日は練習が休みで、ゆっくり家に

サッカー日本代表とぼくの歴史

#サッカー日本代表観戦記 というお題が出てきた。 サッカーが好きな僕からすれば書かない理由はないのでのんびり書いてみることにする。 ーーーーーーーーーーーー 僕が初めてサッカー日本代表と出会った(記憶がある)のは、1997年ジョホールバルの歓喜。 当時、僕は2歳。 正直ほとんど試合の映像は覚えてないし、サッカーのルールなんて当時は全然わかってない。 両親がすごい盛り上がってることはわかったので真似するように拍手したりしてたと思う。 でも、鮮明に、 あまりにも鮮明に覚え

1997年 ジョホールバルの記憶

 あの頃、まだ僕は小学生だった。小学校に入学して間もなくJリーグが開幕して、野球からサッカーに公園の主導権が変わり始めていた時だ。緑色のユニフォームを着たカズやラモスやキタザワに誰もが夢中になっていたあの頃。サムライブルーなんていう言葉もまだなかったあの頃。 93年ドーハの悲劇は、いまでもよく覚えている。ワールドカップの持つ意味や、日本サッカー界の悲願などはよく理解していなかったけれど、子供ながらに「何か大きなことが起きている」という空気を感じ取っていた。試合の翌日、学校で

川崎のサッカー小僧よ永遠に!中村憲剛選手引退に寄せて。【日本代表編】

シゲクです。 2010年5月10日に岡田武史監督から「2010年南アフリカワールドカップ日本代表」のメンバーが発表され、川崎フロンターレからは中村憲剛選手、稲本潤一選手、川島永嗣選手が選出されました。 フロンターレから3人の選手が選ばれたこともあり、2010年5月24日、私は初めて友人と共に「日本代表」の試合を現地で観戦しました。埼玉スタジアム2002にも初めて足を運びましたが、韓国を相手にした試合結果は0-2の敗戦でした。 去る2020年11月4日、今季限りでの「引退