しゅーきょー
宗教です
救いを求める時、人なら人、物なら物、なんでもいいけど、自分とそれとは常に1対1であり、間に挟まるものは全て不純であると思う
信者で社会を形成したり、カーストが存在するのはこちら側の再生産だ
自分と救うもの以外何もいらない
人間は社会を組む、そこからの救済をまた社会化させてしまうのが人間だ
対象が人である宗教は、ブッダにしかり、キリストにしかり、その人の言葉を伝える流派ごとにさらに細分化される
伝える内容も解釈も異なってくる
自分が欲するものに帰依すればいいとは思うが、まず間に人が入っていることをしっかり自覚するべきである
間に入ったものを本質を知ること
でも結局自分ともうひとつのものだけの世界だと、それは自分になってしまう
他からの監視、他からの視点が、自律には必要なのかもしれない
日本だとよく「恥」が他からの評価視点として機能しているのではないだろうか
神様は見ているというのも、究極はなにか絶対的な他に対しての意識であり、人間は他との関係をもって存在を維持できるのかもしれない
二世の話です
信者も通常に生活をする
人間だから家族を作ることもある
子供も生まれる
いわゆる二世の誕生だ
幼少期から子供は親の思考に大きく影響を受ける
この世に生を受けて初めて所属するコミュニティで、この世の全てだと錯覚しやすい
いいこともわるいことも
とくに親が信仰をしている場合、親自身も良かれと思ってであるし、そもそも良いものと認識して選択しているのだから子供にもそれを適用する
子供は自分で選択したのでないが、生まれてからそれが普通として育つ
大人になってから、それは枷ともなりうるし人生の指針ともなりうる
合う合わないもあれば、社会的に受け入れられるかどうかも重要だ
日本人はよく無宗教と言われるが、それは特定の宗教コミュニティへの所属が意図的に行われていないからであって、信心深さにおいては日本人のレベルは非常に高い
宗教への信心というよりも染み付いた国民性と言うべきか、生真面目な勤勉なとされるピュアさが日本人にはある
それが宗教に向かった時、激しくのめり込んでいく現象はよく理解できよう
そしてそれは時に狂気といえるほどの執着になる
自ら選択したんでなければ、それが世界の全てになってしまうのだから、成長の過程で反発が起きなければより強い自覚のない執着になりえる
昔、勧誘を受けたことがある
買い物中に他愛ないことで話しかけられ、親切に対応したら、どうも遊びに誘われた
たまたま質問されただけの存在である自分と2〜3分話しただけの人間
そんなことあるかいと断ろうとしたがどうにも悪い感じがしない
警戒心が解かれてしまったのか、好奇心から翌日少しだけ空いていたので受けてみることにした
翌日、待ち合わせ場所に急に車で現れ、「乗って!そういえば友達も来てるんだけどいいかな?」と
いやいやいやいや
不審だろう
非常に不審だ
まぁその時の自分は大層純粋であったから、近くにあるボーリングにでも行くのかとワクワク乗り込んだ
今覚えば大変危ない
しらないひとのくるまにはのってはいけません
これ、大事
乗り込んで運転席には昨日の人
後部座席には友達と名乗る明らかに昨日の人より一回りは上のおじさん
若き僕はようやっと状況の異常さに気がついた
「ボーリングにでも行きますか?公園とかゲーセンとかもありますよ」
考えていた精一杯の遊びを提案してみる
「おーいいね!その前にちょっとだけお話があるんだけどいいかな」
本題です
いきなり本題です
まぁ早かった
よく駅とかで新聞を配ってるあそこ
あーはいはいはい
見た瞬間全てを理解しもう帰りたい自分
しかし相手もしぶとい
まず車から降ろしてくれないし、後ろの人も声をかけてくる
街中でありながらひとつの無法地帯となっているこの車内で、味方はいない
うちの大学と似ているようで似ていないあそこは、ちょっと思想が合わない
自分は宗教観として、誰かに救ってもらいたいのではなくよりよく生きる知恵を求めているんだと力説するも、信者の前には馬耳東風
史学的な話もスピリチュアルの前には役に立たず暖簾に腕押し
沢山話して考えをぶちまけられて楽しかったが、この世には分かり合えないこともあるんだと実感した
ただ1つ、現状が幸せであり、これ以上は自分の力で切り開くんだと話したら、「自分の力だけじゃ届かない幸せ、知りたくない?」との一言には少し心が揺れた
聞いてみれば失望ではあったが…
昨日の人は、保育士をやっていていわゆる二世であること
家は貧しくとくに母がこの宗教に傾倒していたこと
自分も最初は信じちゃいなかったが、母に誘われて集会に行ってみた後から人生が好転して(体が丈夫になったとか恋人が出来たとか)人に奨めたくなったこと(主に精神面の幸福であり、給与アップや生活の質向上などはなく、生活の範疇に感じた)
どうにも魅力は感じられず、なんなら彼らの生い立ちや現状に同情さえ覚える
信じれば幸せになれる、信じないやつは野垂れ死ぬ
そんな教えになんの価値があろうか
自分の頑張りもあの方のおかげ
自分の不幸は信心が足りない自分のせい
なんとも都合の良い宗教だ
隣に寄り添い道標となるべきものに、何を求めているのか
結局自分を生きるのは自分なのだ
縋りたくなるのもわかる
どうしようもない現実に誰か今を変えてくれと願いたくなるのもわかる
そしてどうにもならないのも分かる
だからのめり込んでいくのもわかる
でも、それは自分のことだけにして欲しい
他を救うことが良しとされているのも分かる
でもそれは戦略じゃないのか
その教えはどんな合理性を宿しているか
理性は無くなるのもわかる
どうか、自分の頭で考えることを辞めないで欲しい
彼らが今どこで何をしているのか、気にかかる
幸せであって欲しいと思う
人間
自意識が芽ばえる物心着く前の環境というのは非常に大切だ
繋がらない多くのことも、必ず幼少期の体験によって種まきがされているのただ
僕はかねてより「好き」は何によって形作られていくのかについて興味がある
小さい頃はまっさらだった価値観に歳を重ねるにつれて凹凸が出て、ハッキリと好みが出てくる
それは最初は親の影響だったり環境の影響だったり、自分の外からやってくる価値観だったりする
しかし、見たもの聞いたものやったもの全てから自分だけの好みをある時から持ち出す
その好みのルーツが分かる場合は良いが、親にも環境にも自分が生きてきたルートに存在しない場所から急に発生する「好き」がある
考え続ければこれはあの時から始まっていたんだなんてことは分かってくるが何故それを好ましく感じるのか、好ましいという感情はなんなのか
ずっと考えている
自然に発生しているとしか言いようのない、理由のない昂り
どこかに種はあるはずなのだが、見つからない
しかしこれまで生きてきた中で確かに醸成されてきた「好き」
抑圧から生まれる執着も、好きなだけやりきった飽きも、生得的な本能から来る好感も不快感も、全部、全部
個性の源は探り続けたい
情報に埋もれるのが好きだ
自分の処理能力以上にいっぱいいっぱいになると幸せだ
処理能力をもっと上げたいし許容量も増やしたい
地頭だけで何とかなってきたのも、ちゃんと壁がある
楽しい情報も不快な情報も、全部
上質な情報に埋もれていっぱいいっぱいになって、もみくちゃにわちゃわちゃに、ぎゅむっとされること
それを求めているんだなぁ
なんでだろうか
幼少期の体験だ
特に制限も否定もされずのびのびとやりたい事をやって褒められて生きてきた
小さな挫折も大きな挫折もいっぱいしたが、ま、いっか、自分は自分という考え方を強く持てていた
絶望したって何となく大丈夫、最終的には愛されるだろうという自信
自尊心かと思えば臆病でとっても卑屈
自分の中に基準があれば律することもできる
自分にはあるのだろうか
ほんのりあるんだろうが、全ての欲と対決できていない
闘うんだ
その時に傍らで力になってくれるのがしゅーきょーのような気がしないでもない
多くの人が関わって長い年月の中で作り上げられた社会的な規律
自分には思いつかないことも、自分の中で作り上げたことも、全て他人も通ってきた道だ
過信心は依存だ
依存ではなく頼る先
縋るんでなく使うもの
信仰は強制されるものではなく自分で選びとるもの
自分に合うものを見つけられるだろうか
見つけるためにもやはり、満遍なく広く関心を持たねばね
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