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不登校はストレス体験だったのかな

不登校関係のツイを見たり、自分がそうだった頃のことを思い返したりしているからか、何故かふと、朝が来て学校に行かなくては、でも今日も行かれない、と心の中でぐるぐるする気持ちを思い出した。 朝になって両親が起き出してきたら息をひそめてじっとして。出勤する音を聞くと一気にほっとした。

そう言えばそうだった。今はもう軽く「不登校上等、学校なんて行かなくても大丈夫」と軽く言ってるけど、当事者真っ最中の時はとてもそんな気持ちにはなれなかった。 鬱で休職するかどうかの瀬戸際で、会社に行かなくちゃ、でもやっぱり今日も無理、と布団の中で逡巡している感情と近いかな。

機能不全家庭で両親とは元々まともな対話もない様な間柄だったというのもあるかもですが、親に弱音や悩みをこぼすなんて事は思いもよらなかった。 親はまさしく腫れ物に触る様に接していたし、こちらも多分平然を装うのが精一杯だった。もし猫なで声でお願いだから学校へ行ってとか言われていたら多分キレていた。

周囲から見たら学校にも行かず勉強もせず、毎日ゲーム漬けで平気な顔をして、何を考えているか全く分からないと思われていただろうけど、内心は穏やかじゃなかった。でもそれを悟られるのはもっと嫌だったった。親にも教師にも友達にも。 当時は意識していた訳ではなかったけど、今はそう思う。

この感じは軽い解離だったのかも知れない。PTSDを発症するような強いトラウマ体験に遭遇したときに心がフリーズするというあれ。ウサギがキツネに食べられている時は心がとんで、肉体的な苦痛から精神を切り離すという。 ゲームは命の浮き輪という言葉を聞いたことがあるけれど、あれはこういう意味なのかな。自分の心を内外の声や視線から守るための本能的な反応。

そうか、不登校は自分にとってトラウマ体験だったんだ。ずっとそんな風に思った事なかったというか、ひたすら「有意義で意味のある行動だった」と考えるようにしていたのかな。 不登校支援に関わりたいとずっと思い、実際何度かいろいろやってみたのも、自分の体験を肯定的に捉えるためだったのかも。

そういえば、義母との同居時も意識していなかったけどしんどくなっていて、カウンセラーの先生に「程度は弱くても継続的なストレスから受けるダメージは大きい」と言われたっけ。 ずっと気づかなかったのか、気づかない様にしていたのか、不登校体験は当時から今に至るまでずっと継続的なストレスだったのかも知れない。

ストレスの程度はもちろん学齢期がいちばん強かったんだろうけど、社会人になってからも地味にいろいろあった。雑談で学生時代の話になると息を殺してひたすら別の話になるのを待っていたり、不自然にならない程度に相槌をうったり。 選択科目何だったとか、修学旅行どこだったとか、共通一次だったかセンター試験だったかとか。ルーズソックス履いてたかとかも。

結婚して子どもを持ち、発達障害という概念に触れる様になった時期と、社会的に不登校が容認される様になった時期がたまたま重なった。 息子が発達障害と診断されたこともあり、特性持ちや不登校のお子さんを持つ保護者さんとの関わりもぐっと増えた。 そこに発達障害への注目と理解が高まる流れが加わった。

こういった環境の中でやっと、心の片隅の冷凍庫でずっと静かに眠っていた感情が融けだして、やっと本当に穏やかな気持ちになれたのかも知れない。 ただ単に年齢を重ねて丸くなっただけかも知れませんが。まあ、それでも良いかな。




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