哲学的な思考の備忘録 トップダウンとか

経済用語だと思うのですが、
「トップダウン」「ボトムアップ」
という考え方があります。

この考え方は人間にも当てはまるのではないか、と考えていました。
人間の行動の意思決定として、
なんらかの「考え」が先行している場合と
禅的なその場その場の「行動」を優先させようとする場合です。

人間の集団的な生活において言語は必要不可欠で、
言語でもって何千万人、あるいは何億人という人々と意思疎通を行っています。
しかしプラトンの言う「イデア」ではないですが、
例えば「リンゴ」というものを考えたとき、私の考える「リンゴ」と他の人が考える「リンゴ」というのは全く同じ姿かたちをしているという事はあり得ません。

私が考える「リンゴ」というのは私が知覚し経験した「リンゴ」であって、他の人が経験した「リンゴ」というのは、
全く別の人間が場所にしろ時間にしろ色にしろ味にしろ経験したものから造り出されます。

そう考えると、簡単に「リンゴ」と言って意思疎通していると思っていた言語による会話というものは本来的に言って

その人が知覚し経験したものでしか思い浮かべる、あるいは理解することができない

という風に考えられます。
しかし人間生活の会話において、「リンゴ」が指し示すものはいわゆる「概念」のようなもので、
個別の「リンゴ」をいちいち思い浮かべなくても、抽象化された「リンゴ」というものを思い浮かべることによって、「リンゴ」を理解し会話していると言えます。

これは考えてみると言語による物質のトップダウン化とも言え、
「リンゴ」という抽象概念ができることによって、実際のものから感覚によってその果物を知覚するのではなく、

これは「リンゴである」という考え方から果物を見てその「リンゴ」という概念に当てはめてみて、それに当てはまるものを「リンゴ」と呼び、
「リンゴ」という概念が存在するから「リンゴ」を理解していると言えます。

これはおおむねすべての言語に当てはまると思われるのですが、
そうなると人間は概念の世界に住んでいるのかというともちろんそうではなく、
あくまで個別の知覚の世界に生きているので、「リンゴ」と言われて思い浮かべるのは書いたように自分の知覚から経験から「リンゴ」というものを思い浮かべます。


経済において「トップダウン」として挙げられる概要は
組織を動かすという時、意思決定が早いという事です。

会話で考えてみても、他人と話すときいちいち実際の個別のものをぶつけ合っても会話が進みませんし時間がかかります。
それなら言語抽象化された「概念」でもって即時に理解することでよどみなく会話が続いていきます。
会話というのは当たり前ですが、普通この書いている文章のように文字に残るわけではないので、出ては消え出ては消えの繰り返しで、「その場その場」瞬時に理解しないと、会話の内容は理解しづらいです。

一般的な会話がトップダウン式にスピーディーに行われる場合、概念化されることにより色々なものが省略されると思います。
そのため、通常理解して会話しているという事になっていますが、本当に相手の言っていることを理解するという事を考えるとどうにも疑わしいのが現実です。

あくまで会話で出せるのは言語化された、抽象化された「言葉」でしかなくその人の実際の経験や知覚そのものではないからです。
つまり私の今までの経験や感じたことからその単語や言葉を発するにも関わらず、
それを聴く相手というのはこれまたその相手自身が経験したことであったり、
経験していなくても概念化された言葉そのものを知っていれば、似た経験を引っ張り出すことにより理解することができるからです。

そういったことで言語というのはトップダウンの性質に似ていると考えられ、
言葉によって個人個人だけではなく、
言語によって作られた「概念」に引っ張られることによって、
集団ですら率いることが可能になるのではないでしょうか。

言語によるトップダウンのおかげで、
文化や宗教、国というものができ、
共通理解として学問や科学というものが発達したとも考えられ、
それなしで人間というものがここまで集団生活を送れたとは考えにくいです。


トップダウンであるという時、一般にデメリットとして考えられるものは
間違えていた場合良くない方向に進むという事や、
トップでのみ意思決定がされるという事で、各々が意思決定しなくなるという事です。

人間個人においても同じことが考えられるでしょう。
以前書いた文章にも書いたような気がしますが、言語や思考といったもので物事を見ると、一つに集中してしまうことで、他の普段働いている感覚が働かなくなるという事があります。

「錯覚」などでよく使われる例で、
「これこれの数を数えてくれ」と言われて映像を見せられると、数を数えるのに夢中でその映像の中で普通あり得ないことが起こっても全く気付かないという事があります。(着ぐるみのゴリラ?が出てくるそうです)

それと同じでバイアスというものがあります。
例えばステレオタイプ的に、「ある国の人はこういう性格である。」
と考えてその国の人を見ると、それに当てはめて考えてしまい、その人の行動そのものから、個別の行動からその人を見ることができなくなる。
抽象化、概念化してしまう事により、概念そのものから物事を見てしまう。

ステレオタイプやバイアス、錯覚など心理学用語で言われることで、
ある本を書いている教授がこぼす話で、
学生にこういったことを教えても、バイアスそのものから逃れることのできる学生はほぼいない
だそうです。
つまり心理学や統計学を学んで、普通に考えるとそう錯覚しやすいから気を付けても、
学んだ本人自身それを回避するのは非常に困難であるそうです。

もし仮に言語が今まで私の論じてきたようなものであるならば、
そもそも言語によって考えている時点で、
言語によって概念化された物事の理解の仕方をしているこのこと自体によって、
すでにトップダウンによる一方的なものの見方の側面が表れていても不思議ではありません。


しかしもちろんこれはトップダウンが全面的に悪いと言っているのではなく、生物が短時間で意思決定をしていく中で、物事を瞬時に判断するという能力は必要不可欠であり、
哲学者よろしく一つ一つの事に疑問を持って生きていてはいくら時間があっても足りませんし、
会話において一つ一つ言葉の意味について定義するのは大変ですし、
物事をすべて知っている必要もありません。

しかし個人個人の生き死にが何よりも重要に迫っていないこの現代社会では瞬時の判断より、冷静な大局的な判断が求められ、
最近の考え方で良く言われるのは、人間には二種類のシステムが働いていて、

「第一システム」瞬時に判断する
「第二システム」時間がかかるが冷静に行動する

という二つのシステムで動いているというものです。
生物にとって必要なのは言わずもがな「第一システム」なわけですが、
物事を科学的に分析的に考えられるのは「第二システム」で、
短絡的に行動せずこちらをうまく活用していこうという事です。

概念化された言語によって会話するという時、一般的な会話であれば即時に行われるため「第一システム」で行われていると考えられます。
しかしこのすでに使われている言語そのものを疑うことにより、
普段はトップダウン的に使われるものが、

その言葉の意味や、表すところ、というものを経験や知覚から考え直そうと思ったとき、すべてを見直す必要のあるボトムアップよりトップダウンであるという事により、
よりピンポイントに限定的に使えることで早い再構築、再決定ができ、
有効に活用できるのではないでしょうか。

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