哲学的な思考の備忘録 運動について

大学の時に一応勉強していたのは、というか興味を持っていたのは運動についてでした。

人間というのはどうやって動いているのか?という疑問です。

これは裏を返すと、私は運動が下手で得意ではないわけです。
なのでどうすればうまく動けるのか、どうすれば肉体を少しなりとも自分の思ったように動かせるようになるのか?という事に興味がありました。

当時は楽器を少しやっていたので、
楽器はどうすればうまくなるのか?
どうすれば指がもっと早く動くのか?
どうすれば最短でうまく楽器を弾けるようになるのか?
というようなことです。

特に深く考えずに答えれば、
「とにかく練習すること」
ということになるでしょう。

しかし飽きっぽい私としてはひたすら練習というのは辛いことで、正直努力というのは嫌いなタイプなので、
どうするとうまくなるのか、短い時間でうまくなれないかなぁなんて少なからず考えていました。
とにかく練習すればいいというと

「一万時間の法則」

みたいなことが言われていました。
しかし単純に考えて一万時間やっても下手な奴は下手だし、
一万時間やらなくたってうまいやつはうまいです。
実際この法則はあまり当てはまらないそうです。

やる気がなくてだらだら一万時間やってもそれ以上いけませんし、
なにか効率的にやれば短時間でもそれを越えるという事は可能です。
そうなると単に時間ではなく、技術習得、運動に関して何らかの「効率的なやり方」というものがあるのではないかと考えるわけです。


まずもってこういったことを考えはじめたとき、
第一に運動にしろ、行動にしろ、
意識の使い方、向き方というものがあるんじゃないかと考えはじめました。

これは意識の段階、あるいは範囲ともいえるもので
わかりやすい例を挙げると、

鉛筆を持って文字を書くとき、
鉛筆自身には意識が向かず、鉛筆で何を書くか?
というところに意識が向きます。
今はすでに鉛筆を持つことには抵抗なくすんなりと使い、なんの文字を書こうかという時、文字そのものに意識がいっています。

例えば箸を使って物を取るのは一般的な日本人なら苦もないでしょうが、欧米人にとって箸を使うのは慣れておらず、苦労するでしょう。
箸を持つというところにまず意識が向き、箸をどうやって使って挟み、そういった使い方そのものに力を使います。

しかし、鉛筆や箸に慣れた人間は、
鉛筆を使って何を書くか、箸を使って何を取るか?という
鉛筆にしろ箸にしろ、その先端部分に
「意識が延長している」
という事が言え、鉛筆や箸そのものについての意識は省略されてしまっています。

「意識が延長している」と言っているのは、
肉体は右手、あるいは左手まででしかないのにもかかわらず、
自身の肉体を越えて、鉛筆や箸に肉体が同化したように、
鉛筆の先や箸の先の感覚というものがはっきりとわかるという事です。

これは靴で地面を踏むと、直接足の裏が接しているのではないにもかかわらず硬さを感じることができ、(足が踏んでるのは靴の内側、あるいは靴下)
車を運転しているときにタイヤで何か踏んだ場合、石か何かを踏んだ、とはっきりわかるように、
意識そのものが先にいって感覚できるという事になります。

しかし先に書いたように箸を使い慣れていない人間は箸を使う、というところに意識が向いていて、感覚していて、
意識している先、意識している範囲といいますか、そういったものが別の、一つ手前の次元にあります。

これは他の一般的な運動に関して当てはめてみても、なんとなく理解できるように思えます。

ボールを投げるとき、うまい人は手の使い方ではなく、どこにボールがいくか?というところに意識があるように思います。
車に乗るとき、足の感覚のアクセルの深さやブレーキの深さではなく、どのくらいの距離で止まりたいかと進む先を見て強弱します。
ブラインドタッチするとき、うまい人はキーボードを見るのではなく画面を見て打ち込みます。
テレビゲームをするときボタンを見ずに、どうキャラクターを動かすかを考えます。

そうなると、
ギターにしろピアノにしろ、どこを押さえるか?ではなく、どういったメロディを弾くか?弾きたいか?
という次元までいった場合、自由に弾けると考えられます。
意識が手元ではなく、正に延長して、その目的そのものに届くという時、うまく弾けると考えられます。

ではその次元、あるいはその段階にいくためにはどうすればいいのかというのが問題です。

一般的な科学や学問といった場合、単純な原因と結果で語られます。
つまりこうすればこうなる、という関係性が分かりやすく、基本的に一本筋で語られます。
なので単純に考えて運動等に関してうまくなるといった場合、そういった単純な論理で考えれば、

とにかく練習する、といった一つの解決策が論じられます。

しかしこういった運動に関して色々考えてみると、そのうまくなるための、次の段階に進むためには、単純な一つの道筋でもって説明できるのか?
そもそもこの段階というものが明確に区別されうるものなのか?
仮にその段階を理解し、次の段階に行ければうまくなれるのなら、
初めから次の段階のみ想定して練習すればうまくなれるのか?
それとも一段一段クリアしていかなければならないのか?
というようなことが考えられますし、

では練習を繰り返すことによって、次の段階に行けるのか?
意識の使い方をコントロールすることが重要なのか?
という事も考えられます。


一旦ここで切ります。

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