哲学的な思考の備忘録 運動について4

一般的な考え方として、意識したもの、あるいは考えたものは自分の経験と重ね合わせて「できる」という風に考えることが多いです。

例えば料理本を見てその料理を同じように作る。
スポーツでこれこれこういう戦術を使うから、その時にそう動く。
ある本を読んですごく良いことを言っているから次の時からそれを実践する。などなど。

しかしこういったことは大概においてその通りに出来ないことが多いです。
というのは、思考と肉体というのは、
本来肉体(あるいは現実)があって思考があるのに、
思考があって肉体(現実)があると間違えて考えてしまう事があるからです。

行動、運動、感覚という肉体がまず存在していて、
それによって思考という道具が生み出されるのにも関わらず、
これだけ科学が発達し、知見というものが一般化し、
全く経験せずに体験せずに色々なことを知れるという事によって、
ミラーニューロンというものもあるようですが、
「経験せずに経験した」というようなことによる思い違いばかり増え、
思考によって「経験済み」になってしまう事によって、

また現実世界で、他人同士での未経験的な合意も加速を進め(お互い本当は知らないのにもかかわらず、「知っている」という事によって多くの会話が成り立つ)、
現実との折り合いがつかず自身の思考と肉体との乖離に悩むことになる。


料理を作るというのは理想と現実を見極めながら、試し試し作っていくものです。
例えばある料理本を見て具材や、道具や、時間、調理方法など書いてあります。
まず具材を揃えます。本と同じものをそろえるのは大変かもしれませんし、同じ形のものが、大きさが手に入るとは限りませんし、鮮度も違います。
道具は同じものがあるでしょうか?包丁の切れ具合、鍋のサイズ、素材、ガスコンロの火力。
ガスや電気の火力が違えば時間は違います。時間が違えば、火の入り方、食材の質も変わります。
包丁を使って何切りをして。鍋を振って。

あらゆることが関わってきて、理想通りにいくでしょうか?
料理は現実的に言って、ものを見ながら作っていきます。
どういう道具があって、こう使えて、この野菜はこう切ってみたら繊維がこうで、フライパンで肉を焼いたらこのぐらいの時間で焼けた。

料理本というのはあくまで道しるべであって、それによって道が見えるだけであって、料理本によって道が作られているわけではありません。
あくまで現実に作るという行為によってしか、実際の道を切り開くことができず、
現実でもってその場その場での判断をして、その都度微調整をして目的に向かっていきます。

色々な科学的と言われることを知ることや単に覚えるだけの勉強が重要視され、一般に運動、行動すること、肉体そのものが下に見られがちな現代において、現実そのものから考え直すという事は重要です。

単に個人的な感想ですが、小賢しい人が増えたように思います。
「愚者は自分の経験に学ぶと言う、私はむしろ他人の経験に学ぶのを好む。」
youtube見て他人の経験でもって学んでる?(もちろん見るのは好きです)

外国語を覚えるという時、文字を読み書きするという事と、聴く話すという事は同じようで全く別の知覚で成立していて、
読み書きができても、聴く話すことができないというのはざらです。
外国語を出さずとも、識字率というものが指し示すように、話すことはできても書くことができないという人たちはたくさんいます。

同じ言語で知っているにも関わらず、話せるけど書けない?
これは識字率の高い日本で単純に思考で考えると、解りづらいですが、

話すというのは聴覚を利用していて、
書くというのは視覚でもって認識しています。
これらは別の感覚野でもって識別しているのであって、
同じ個人なのに使っている能力が別のものであって、
使いやすさや習熟度、感度、そういったものは個人個人レベルが違い、
またそれらを発現する、表現する方法が口や手や目など別の器官を利用することによって、
全く別のルートでの方法になる事によって、
違うという事が当たり前であるのです。

音楽でも似たことが起こることがあり、
クラシックに慣れている方は楽譜を「読む」のに慣れていて、楽譜があれば弾けるが楽譜がないと弾けない。
逆に楽譜は全く読めないが、メロディを耳で「聞く」ことで弾けるという人もたくさんいるでしょう。

例えばこうやって「目で」「指で」書くことが非常にうまい人がいれば、
「耳で」「口で」話すことがうまい人もいるでしょう。
書くことがうまくても、話になると全然ダメ、
話すのはうまいけど、書いている文章は全然ダメ。あり得ます。

ちょっと違う話ですが、
目の見えない人は通常の人間より、聴覚や嗅覚、触覚が敏感でしょうし、
耳の聞こえない人はまた、視覚などが発達しているそうです。

思考でもって考えると、
自分というものは芯のところが一つ、例えば「心」と言われるような何らかの精神的な柱が一本立っていて、
デカルトの言う「我」ではないですが、
海外で言われるアイデンティティのような不変の自分というものが、
それでもって色々な行動を起こしたり運動したり、と考えられますが、
こういったことを現実を見て、肉体を見て考えると、

やはり知覚感覚の集合体、総合体、あるいは統合体としての「我」と言うことができても、
「我」からスタートして物事を考えていくというのは間違いであり、
「我」からスタートすることで錯覚など知覚感覚を捻じ曲げることはよくあるように思い、
(またしかし使いようによっては逸脱的に超えることも可能ではあるが、)

どちらにしろ、肉体が不可分であるにもかかわらず、
能力的に言って個別であるという事は、
それらを個別に使用することによって、
現実的な経験、行動や運動そのものをすることによって、

思考などの限定的な範囲での知覚でしかないものを、
より多くの知覚として自身の本当の「経験値」として蓄えられることによって、
より良い行動に移せることができるようになるのではないでしょうか。

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