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コーラの夜(1)

 彼の生活の所作は完全にルーチン化されている。不文律なマニュアル化と言ってもいいだろう。やや強迫神経症気味を彼は自覚しているが、しかしこれを外れて不安になるよりはいいとも思っている。
毎朝彼は、七時半スマホのチェロの音色で目を覚ます。毎朝と言っても月曜から金曜までだが。そしてベットから這い出ると、まずトイレに行く。用を足した後寝ぼけ眼で顔を洗う。ここは必ずお湯である。水でもいいんだろうが、最初にお湯でやったから、ここはお湯に決まってるのだ。
 そして顔の洗い方もパターンが決まっている。まず普通に全体を、掬ったお湯で数回洗う。そして両の薬指の腹で両の目頭からそれぞれの目尻へ向かって動かし、目やにを数回取る。そしてタオルで顔を拭くと、やはり最後に今度はタオルで目頭から目尻へ動かし、拭き取る。これは一回だけである。二回でもいいだろうけど、やはりずっとこれは一回だから、今も一回である。髭剃りも二十年愛用の電気カミソリでざっと剃る。
 今度は朝食である。彼の朝食はここ十年ほどマーガリン入りロールパンこれ一個である。そしてミルクティー。ミルクティーはもれなく昨日の飲んだコーヒーカップが台所のレンジの横、これも定位置でほぼ数センチも変わらないのだが、そのまま残っているのでまず洗う。
洗ってる間にIHコンロでやかんに入れた水を沸かすのだが、この洗い方もほぼ決まっている。食器洗いスポンジでまず中の側面を左手にカップを持って回しながら洗う。そして今度は中の底部を右手の中指と薬指を使ってスポンジを回すように洗う。最後にカップの飲み口のふちをカップを回しながら洗う。そしてお湯を外側の飲み口、中の順でかけ、完了である。
次に沸いたお湯をカップに入れるのだが、カップの内側にどうしても落ちない茶渋が黒くついてるところがあり、そこまでお湯を入れる。別にその上でもその下でも量的に全然問題ないのだが、彼はいつもそれより上にも下にも入れたことがない。そして棚に入れてある百個入り五百円くらいのティーバックを一個取り出し、三四回上下に振った後、横に備え付けられている燃えるゴミ袋の中に滴が下に落ちないか気にしながらぽいと入れるのだ。あとは砂糖を入れて、もう溶けていると思いつつも無駄と思いながら十回くらいはかき回すのである。
そして冷蔵庫に入っているパックの牛乳を取り出し、少し入れ出来上がりだ。牛乳を入れた後は絶対かき混ぜない。仕事の日はそのまま立って食べる。食べ終わった後は、カップにもう一度水を入れ、水分補給のため飲み干す。これは必ず目一杯すりきりまで水を入れる。そのあとバターロールの油が右手の指か左手の指についているので、それを水で洗って朝食完了だ。
と、こんな風に起きてから朝食までを取り上げても十年一日のごとく全く同じ動作を繰り返すのである。朝食に限らず歯磨きや風呂、就寝にも、お茶の作法や型のようにある一定の動作が繰り返される。彼にとってはこういった同じ動作の繰り返しが心の安定につながっている。
彼の仕事はコールセンターのオペレーターである。それぞれの案件に応じてマニュアル、フローチャート、QAと話すことは全て決められており、それにのっとって誘導していくだけだ。これも同じ話の繰り返しである。

そんな同じような日を暮らす彼の休日は、たいがいゲームをしている。この日も深夜までゲームをし続け、もうそろそろ寝るかという時、無性にコーラが飲みたくなった。理由は分からない。ずっと家にいてゲームをしてただけである。のどが渇くような運動なんか全然してないし、のどが渇くようなもの、例えば辛い物やしょっぱいものを食べたわけでもない。夕飯は冷凍食品のチャーハンだった。いつも食べてるやつだ。夏で暑かったが、冷房をきかせているので問題ない。
確かに彼はコーラが好きだった。好きだったというのは、なんか体に悪いような気がして、根拠もないのに避けていたのだ。子供の頃から好きだったのに、大人になって変にコーラに対してストイックになってしまい、飲みたいと思ってもその都度抑制してきた。実際、十年くらい、コーラを飲んでいない。
子供の頃はコーラを飲もうとすると、周りによくコーラは骨が溶けると言われた。その時は、でも骨が溶けてもうまいんだよなと思いつつ飲んでいた。大人になってそれは根拠のない迷信だなと思うようになったが、実際どうかも知らないし、そういった子供の頃の刷り込みで、やはり飲まない方がいいとは思っている。別に大人になって特別健康に気を払ってそうしているわけでもなく、ぎとぎとの背油の浮いた濃厚ラーメンもよく食べるし、ビールもよく飲む。ただ何となくコーラは体に悪いような気がして、自ら自制してきたのだ。
あのぱちぱちという炭酸がはじける音、黒く毒々しい色、なんだかよくわからない甘い香り、のどを通る時のはじけるような刺激。そんな子供の頃に飲んだ刺激的な記憶が鮮明に蘇り、ああ今あの冷たいコーラを飲んだら、どんなにうまいだろうと彼は思った。
いや、しかしと彼は思いとどまった。こんなことは前にもあったじゃないか、その都度我慢してやり過ごしてきたんじゃないかと、思い直したのだ。どうやってこの魅惑的な欲望をどうにか押し殺してきたのか覚えてなかったが、彼はとりあえず多分のどが渇いているだけで、本当にコーラを飲みたいんじゃないんだと考えたので、水を飲んでのどの渇きをいやそうと考えた。実際そうのどが渇いているとは思っていなかったのだが、自分の意識とは無関係に体が水分を欲しているのかもしれないとも思い、小さな台所の蛇口をひねった。水が何の躊躇なく出てきた。
彼はコップなど使わず、両の手にあふれんばかりの水を掬い取り、そのままごくごくと飲み干した。水のあの無味無臭、いやむしろ水道水のカルキ臭さが若干残る後味があり、のどが癒されるというより、腹がたぽたぽとする嫌な過剰感しかなかった。しかし少しすれば水を飲んだことで、コーラへの渇望感は消え失せるだろうと思っていたが、やはりコーラのことが頭にちらつく。
コーラが飲みたい、コーラが飲みたい、コーラが飲みたい。頭の中で何回も反芻された。
こんなにコーラが飲みたいと思ったことはなかった。少なくとも彼の記憶ではない。まるで何かの中毒患者の禁断症状のように、彼には思えた。手が震えるとかそんなことはないが、そのくらい苦しい。まして彼は十年くらいコーラを飲んでないのだから、そんな禁断症状など起こるはずがないのだ。
欲望を無理やり押し殺しつつ、彼はいつものルーチンで歯を磨き、シャワーを浴び、部屋の電気を消して、ベットに横になった。彼は寝つきがいいことを自負している。まあ自分があまり悩む性格ではなく、単細胞的な脳だからだろうと思うからだが、そんなことがあってこのコーラほしい衝動も睡魔とともに明日の朝には消え失せているだろうと思った。
しかし眠れない。コーラを頭の中で叩きのめそうと思っても、またいつの間にかどこかからかぬっくりと起き上がってきて、頭の中を満たす。
隣の家の犬が吠えている。番犬のつもりなんだろうが、この犬は毎夜吠えている。結構な大型犬で、日本の犬だろうが種類は分からない。通りかかるといつも睨みつけてくる目つきの悪い奴だ。

頭の上のデジタル時計を見てみた。一時二十三分。彼は決意した。コーラを飲んでやる。これから近くの自動販売機まで行って、お金を入れてあのコーラを買ってやる。コーラを売ってる会社、今に見ていろ、俺は買ってやるからな、と半ば錯乱したようにやけになってそう思うと、掛け布団をばさっと片手ではぎとり、ベットから力強く起き上がった。
彼はこの1Kに越してきて、まだ三か月しか経っていない。駅から遠いが、家賃が安いので借りることにした。コンビニはあるにはあるが、一回しか行ったことがなく、歩いて十五分はかかるところで、住宅街の細い道を右に左にくねくねいかないとない。しかもその道が住宅街の裏道的な細い道だから、確実にたどり着けるか彼には自信がなかった。分かるのは北の方面に行けばいいというぐらいである。しかもこの暗い道である。コンビニに着けるどころか迷子になりはしないかと彼には思えた。
しかし確実に言えることがあった。それはすぐ近くに商店街があり、そこの魚屋の前に自動販売機があるということである。商店街と言っても開いている店は三、四軒で、あとはシャッターが閉まっている小さなさびれた商店街だ。
しかしその自動販売機にコーラがあるかは確実ではなかった。会社の行き帰りに必ず通る道なのだが、一回も買ったことはなく、そして何が売ってるかも見ていなかった。数ある自動販売機の中でコーラが売っている割合はどのくらいなのだろうと彼は考えた。一割くらいだろうか。彼は確率十分の一かと、あまり期待できないことを覚悟した。しかし今一番コーラに近い道はその可能性を追ってみることしかない。彼は魚屋の前の自販機に行くことに決めた。
しかし問題は、今外は嵐だということである。
台風が来ており、夜になってから雨と風が激しくなってきた。ちょうど台風が通過中に行くことになる。激しい雨が窓や壁を打ちつけている音が聞こえる。風が逆巻く音が聞こえる。しかし彼は行くしかないと思った。もうこの欲求はどうにも止められない。この欲求は嵐をも凌駕するほどのものなのである。
完全に寝る態勢だったが、彼は電気をつけ、クロゼットからズボンとポロシャツを出し、着る。自転車はあるが、こんな嵐では自転車もこげないだろうと思い、歩いていくことにした。そして傘も多分飛ばされそうな風だからと、彼は自転車に乗る時用の上下の雨がっぱを着こむことにした。
財布はズボンのポケットに入れて雨がっぱを着れば濡れないだろうとは思ったけれど、万が一を考えて百円玉二枚だけを持っていくようにした。多分五百ミリリットルが百五十円で買えると思ったのだが、五十円玉がなかったので、二百円持っていくことにした。
彼には彼女がいたが、ごくたまに深夜でも電話をかけてくることがある。何かの用事ということではなく、不安になったりすると深夜でもかけてくることがある。二、三十分も話をしてあげれば落ち着いて眠るのだが、今夜がそれがないとは限らない。ましてスマホを持っていかず電話に出れなければ、疑り深い彼女は浮気と誤解をしかねない。問題はスマホが防水仕様ではないということだ。やはり雨がっぱで濡れないとは思うが、ズボンのポケットから雨水がしみて使えなくなってしまうことも考えられた。だから持っていきたくはなかったが、かかってきたら困るから持っていくことにした。
彼のアパートは壁が薄く、さらに隣人の男が深夜の足音などでも壁を叩いてくるので、彼は部屋を出る時、足音やドアの開け閉めで音を立てないよう細心の注意を払った。

風が吹き荒れ、激しい雨が地面を打ちつけていた。雨がっぱをしていても顔は何も覆ってないから、容赦なく横からの風とともに雨粒が彼の顔を打ちつけた。瞬く間に顔はずぶ濡れになった。ほんのちょっと歩けば自動販売機まで着くと思っていたが、強い風にあおられ歩くことさえままならない。前を見ようとしても強い風と雨で目も開けていられないほどだ。彼は歯を食いしばり、低い体勢で風にあおられないようにし、ゆっくりと歩いていった。閑静な住宅街だが、当然ながら明かりのついている家の窓はなかった。どこの家も窓や雨戸を締め切り、静かに家で寝ている。
木が大きくしなり、枝や葉が激しく揺れている。どこかで自転車が倒れるような金属性の音が鳴り響く。何かが風で倒れたのだろう。風で吹き飛ばされた葉や紙くず、新聞紙が道のアスファルトに舞っている。
彼は何とか商店街の通りまで来た。活気のない商店街とはいえ、昼間や夕方であれば誰かしら見かけ、人の匂いがする。肉屋のおばちゃんが店の中からひまそうに通りを歩いている人を眺めていたり、魚屋のおじいちゃんが忙しそうに魚を並べていたり、ほろ酔い気味の男の客が居酒屋から出てきたり。当然と言えば当然だが、今は猫の子一匹いない。
吹きつける雨粒を手で避けながら、雨でけぶる先を見ると、自動販売機の側面が見える。この暗い夜の嵐の中でも自動販売機は、淡い光を道の上に落としている。彼はコーラよ、あってくれよと祈った。
彼は長靴を持っていなかったので、安物のスニーカーを履いてきたが、もう靴の中は雨でぐしゃぐしゃだった。足の裏が気持ち悪かったが、もう少しだと奮い立たせ、前へ進んだ。
 彼は自動販売機の前まで来、がっかりした。二十種類ほどは並んでいる商品をどう見まわしてもコーラはない。ほとんどがお茶やコーヒーで、炭酸はグレープ味の炭酸が一つあるだけだった。会社が違ったのだ。ある程度は覚悟していたが、やはりないと分かると意気消沈した。
彼をあざ笑うかのように、自動販売機の押しボタンの光が、右から左へ、左から右へと流れるように明滅を繰り返す。光の動きで注意を惹き、販売促進にあてているのだろうが、今の彼にその光の流れは虚しさ以外の何物でもなかった。
彼の頭に一瞬、妥協案が浮かび上がった。それは同じ炭酸なんだから、このグレープ味の炭酸で代替できないかということである。しかしこの妥協案はものの数秒で打ち消された。あのコーラ独特の甘い香り、のどを通る時の刺激、他にはない毒々しい黒色。他では代替できない。彼は初志を貫徹することを決意した。
この自動販売機がだめとなると、残るは一回しか行ったことのない、道順もうろ覚えのコンビニである。十五分ぐらいはかかるが、この嵐の中ではなおさら大変である。コーラ一本のためにこんなに苦労しなきゃいけないのか。彼の頭にそんな弱気がよぎったが、いやここまでやった以上絶対コーラを手に入れなきゃいけないんだと、自分に言い聞かせた。彼は顔に吹きつけてくる雨を、手で拭った。

その時、彼の脳裏にある記憶がよみがえった。それは普段は通らないが、一回だけ通ったことがある道に確か赤い自動販売機を見た記憶がよみがえってきたのだ。
友達から近くにラーメン屋があることを聞き、自転車でそのラーメン屋に行く途中のことだった。商店街の先のT字路を左に曲がり、酒屋を越えたところの駐車場の脇に確か自動販売機があった。しかもそれは彼の記憶だと赤だった。コーラの自販機は普通、赤である。ということはかなりこれは確率が高い。そのラーメン屋がまずく、もう二度と行かないと思ったことはよく覚えていたのだが、そのことは忘れていた。
彼は自転車で通りすがりに見た自販機のことなど、よく思い出したなと自分でも驚いた。本当に欲しいと思えば、自分が自覚していないことも、頭のどこかから引っ張り出してくるんだなと思った。
しかし問題もあった。それはその自販機までは歩いて五、六分で行けると思うのだが、コンビニとは真逆の方向で、もしそれが記憶違いだったとき、もう一度引き返してきてコンビニに行かないといけないということだった。コンビニにコーラがあることはまず間違いないから、そのとき初めからコンビニに行ってればよかったとなる可能性がある。確かに見た記憶はあるのだが、自転車で一回だけ通りすがりに見た記憶なんて、見間違いも大いにありうる。
しかしもしその自販機にあれば、コンビニに行くより早く手に入る。こんな嵐の中を十五分も、しかもよく分からない道を歩きたくない。早くコーラが欲しい。彼は迷った。
これは賭けになるが、あそこに自動販売機があったこと、そしてそれが赤かったこと、それは確かに覚えているので、より近いその自販機に賭けよう。自分の記憶を信じ、そう勇気をもって選択した。
家を出てきた時より、さらに雨風が強くなっていた。台風のこの辺の通過は深夜とニュースでやっていたが、多分今なのかもしれない。
わき腹から腰にかけて彼は冷たいものを感じた。防水性の雨がっぱではあったが、この横殴りの雨でどこかからしみ込んだらしい。ポケットに入れたスマホが濡れてないだろうかと彼は心配した。
強い風で少しずつしか歩けない。やっと彼は商店街の切れるT字路まで来て、左に曲がった。普通に歩くより三倍以上は時間がかかっていた。しかし彼は、顔に吹きつける雨粒を手で拭いつつ、記憶にある第二の自動販売機を目指して懸命に歩いた。
酒屋を越え、駐車場の脇に……。
あった。赤い自動販売機があった。
辺りは電灯が少なく、暗闇に包まれ、暴風雨で視界はけぶっているが、その他は彼の記憶と寸分違わなかった。駐車場の脇、そして赤い自動販売機。
ああ、自分の記憶を信じてよかったと、彼は改めて思った。
彼は近づいてみる。そして彼は見た。その自販機の側面に赤い地に、流れるような字体で白色のCoca Colaという英字を。
このCoca Colaという英字を、彼はこんなに感動的に見たことはかつてなかった。
間違いない、これはコーラの自販機だ。ああ、やっとこれでコーラを買うことができる。彼は濡れた手で雨がっぱの下のズボンのポケットをまさぐり、百円玉二枚を取り出す。そして明るい光で照らされた自動販売機の正面に回り、商品の中からコーラを探した。

五百ミリリットルのペットボトルサイズのコーラがあったが、彼はそれを見て愕然とした。売り切れだったのだ。
五百ミリリットルのペットボトルのボタンは二つ用意されてあり、そのどちらにも「売切」と無情にも赤いランプが灯っている。この自動販売機の中にいくつも商品があるが、売り切れになっているのは、コーラだけだった。
彼は呆然とそこに立ち尽くした。自動販売機の白い照明が、彼の青白い顔を暴風雨の中で照らしていた。彼の右手に百円玉二枚が、むなしく握られたままだった。
彼は天国から地獄に叩き落されたような気持ちになっていた。同時にえも言われぬ怒りが込み上げてきた。
Coca Colaと自動販売機の側面に謳っておきながら、その商品がないとは何事か。他にもお茶やらジュースやらコーヒーがあるが、それらがないならまだしも、看板のコーラが売り切れとは何たることか。コーラは世界中で愛される世界的な飲み物である。それがこんなことでいいのか。
彼はそんな当てどころのない怒りが込み上げてきたが、そんなことを言っても始まらないことに気づいた。そして冷静にならなければと思った。
コーラの会社だって売り切れにならないように努めているはずだ。ここのコーラがたまたま連続で買われ、予想外に売り切れになってしまったのかもしれない。彼はそう自分をなんとか納得させた。
こうなったらコンビニに行くほかない。初めからコンビニに行ってればよかったが、仕方がない。また逆戻りして、彼はコンビニまで歩かないといけない。
彼はもう一度売切という赤い電飾の文字を見つめ、それがやはり赤く灯っていることを確認すると、恨めしそうな顔でそこを後にした。
彼はまた酒屋の前を通り、商店街の通りに入っていく。
彼はまたついさっき通った人っ子一人いないさびれた商店街の通りを見て、本当にくじけそうになった。何も進んでないじゃないか。また同じ所に逆戻りだ。何のためにここまで来たんだろう。さらにコンビニはもっと遠くにある。普通なら十五分ほどで着けるが、この嵐なら三十分はかかるだろう。今ならまだ帰れる。家は近くにあるんだ。帰るんなら今だぞ。
そう彼の頭に、諦めの考えがよぎった。

しかし……いや、しかし、ここまでやった以上、最後までやるべきなのではないのか。この苦労が無駄になる。何のためにここまでやったのか分からなくなる。そうだ、俺はやり通さねばならないんだ。そして何よりも、俺はコーラを飲みたいんだ。俺は絶対にコンビニに行くぞ。そしてコーラを飲むんだ。
彼はそう自分を奮い立たせ、前を見た。
彼の決意は固くゆるぎなかった。彼はまた嵐の中、力強く歩を進めた。
また商店街を逆戻りし、商店街を抜けると、そのまま真っ直ぐ行く道と左斜めに行く道があり、確か左斜めに行く道に入っていくんだろうと思うのだが、彼には確信がなかった。多分真っ直ぐでもコンビニのある同じ通りに出るので行けるには行けるのだが、左斜めのほうが近いはずだと彼は思い、左斜めの道に入っていった。
閑静な住宅街の裏道的な細い道だからなのか、電灯が少なくとても暗い。彼は左右の家並みを見て、ここを通ったか記憶を呼び戻そうとしたが、どうしても暗く家並みの風景がよく分からなかった。しかしもう彼には進むしかなかった。北の方向だということは分かっていたが、もう勘に頼るしかなかった。
途中、電灯が明るく光るところで、その家並みや進行方向の様子をうかがうが、どうも見慣れない風景である。この道は違うんじゃないか。この見慣れない風景がずっと続き、もうコンビニにはたどり着けないんじゃないか。彼の頭に不安がよぎり、心細くなってきた。そして時間が長く感じられた。
それでもひたすら進んでいくと、ここで彼の記憶なら右に曲がらないといけないのに、左に曲がる道しかない。まったく見覚えがなく、ここにきて彼は道を間違えていることに気づいた。
しかし道が左にしか行けないので、行くしかない。左に曲がってやや行くとまた右に曲がる。不安を引きづりながら歩いていくと、車が通るようなやや広い道に出た。
多分、距離的にもコンビニがあるとしたらこの道である。ただ出るところがコンビニから離れたところに出てしまったんだろうと彼は気づいた。
あの真っ直ぐ行くか、左斜めに行くかの分岐点で、多分真っ直ぐ行けば一番コンビニに近いところに出れたのだろうと彼は合点した。
とすればこの道を東の方向に進んでいけば、コンビニは左手にあるはずだ。彼はそう確信し、その道を東に歩いていった。
車の通る二車線の道だが、まったく車は通らない。この道はさっきの道に比べたら電灯も多く、道を明るく照らしているが、路面に強く打ちつける雨と逆巻く風しか見えない。前を見ても横殴りの雨でけぶり、夜の暗さで前方近いところしか見えない。彼はこの道にコンビニがあると信じ、一心に進むしかなかった。
とその時、前方にこうこうと光る平べったい明るい建物がある。
間違いない。あれはコンビニだ。彼は確信した。
彼はある意味、達成感を感じていた。
(つづく)

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