見出し画像

マウンティングゴリラはいない

ここ数年『マウンティングゴリラ』という存在しないはずのゴリラがちょくちょくtwitter上で確認されている。

もちろんマウンティングゴリラは「マウンティング」を行いがちな人を揶揄しているに過ぎないんだけど、ゴリラで検索することをエゴサと呼ぶ身からすれば「なぜゴリラを巻き込むの?」という点で放ってはおけない。

世間一般で考えてもゴリラという言葉が悪口として機能していることも気になってたので、このあたりでひとつ、ゴリラの尊厳と名誉のために、彼らのことを知りやがれください。

まずゴリラは...!と私が自分の言葉で語りたいところではあるけど、ゴリラの研究者であり、現京都大学総長 山極 壽一さんがマウンテンゴリラについて長く研究をされていて、自分が言うより主張にハクがつくので、早速だが山極さんのお言葉を紹介する。

以下、ほぼ日の取材時の山極さんの言葉。

人間社会では、負けたくないということ、勝とうとすることは一緒だと語られているんです。でも、ゴリラの社会というのは、勝とうとする社会じゃなくて、負けまいとする社会なんですよね。ゴリラには、負けたという意識がありません。子どもでもメスでも、身体の大きなオスゴリラに迫られようが、ぜんぜん負けませんから。イヤなのは、イヤ。ダメなのは、ダメ。どんな相手にも敢然と向かっていくわけですね。それがね、すごく美しく見えるわけですよ。(山極)

おさるの年にゴリラの話を。-ほぼ日刊イトイ新聞より)

わかった?ゴリラは美しいのだ。
いや、そこじゃないな。

勝とうとする社会じゃなくて、
負けまいとする社会なんですよね

こうあるように、まずゴリラは社会として、マウンティングという概念を持ってない。少なくともマウンテンゴリラはマウンティングしないゴリラなんだ。

マウンテン(山間部)に住んでるけどマウンティングをしない社会に生きていて、筋肉は隆々だけど、無闇にそれを行使しない。誰も見下さないし、誰も威張らせない。もう多分みんなゴリラと友達になりたくなったにちがいない。

マウンティングゴリラという言葉をきっかけに書き始めたが、ゴリラは最早「マウンティング」と対となる言葉ですらあることをわかってもらえたんじゃないだろうか。彼らがいかに映画「キングコング」の暴力的なシーンのみでイメージづけられていたのか。小学生の頃にバカ、アホ、マヌケについでゴリラと投げかけていたことが、いかに相手にとって名誉であったことか。

正直そんなことはわからなくていいが、ゴリラという生き物はすごく魅力的な生き物なので、これからもし、あなたが悪口ゴリラに出会ったときは「そうじゃないんだよ」とさとしてあげてほしい。そしてマウンティングの止まらない人に出会ったら、あなたが疲れない程度で相手のことを褒めてあげてほしい。そして自分もちょっと褒めてもらおう。

誰も下に見ないで、誰も威張らせない社会とはいかないだろうけど、ゴリラをリスペクトして少しだけ優しい世界になれれば、下手な文章も救われます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?