久保建英が泣いた日
久保建英が崩れ落ちた。
10歳でバルセロナのユースに入団、18歳でレアルマドリードのユニフォームを纏った「天才」久保建英が2021年8月6日に見せた姿は、我々が想像もできない程に感情的なものだった。
あの日、彼の中で何かが解けた。
ずっと背負っていたもの、抱えていたもの。
目には見えないが、それを初めて我々の前に露わにさせた。
一体、久保建英は20年間、何を抱えていたのだろうか。
主観的ではあるが、それを紐解いていく。
国内時代の久保建英
契約上の問題でバルセロナから帰国した15歳の久保建英を迎え入れたのは、FC東京だった。
当時はFC東京U23というJ3クラブで主に出場していたが、翌年にはトップチームでJ1デビューも果たしている。
当時のサッカー応援番組やべっちFCではこんなことを話していた記憶がある。
しかし実際に目立った活躍をすることはできず、トップチームとU23のチームを行き来する時期が続いていた。
そんな中、2018年の夏に横浜F・マリノスに移籍した。
筆者はマリノスが好きなので、名の知れた久保建英がマリノスに来ると聞いて驚いた印象が強い。
当時のマリノスのサッカーは欧州寄りの戦術で、彼にとってもやりやすい環境だったことは素人ながらだか推測できる。
実際にマリノスでの出場機会は東京時代よりも少し増え、待望のJ1初ゴールも記録することができた。
ゴール後の喜び方がトコトコ走りだったこともリアルタイムで見ており、思い返してみれば初々しさが窺える瞬間だったなと感じる。
そんな久保は翌年の2019年にFC東京に復帰し、海外移籍するまでの半年に13試合4ゴールの活躍をした。
復帰した初戦の川崎フロンターレ戦、私は現地で彼を見た。
得点こそなかったものの、フリーキックからゴールポストにシュートが当たるシーンがあったことを目の当たりにした。
彼が海外移籍するラストマッチ、FC東京のホーム味の素スタジアムに迎え撃ったのは、彼の古巣である横浜F・マリノスだった。
試合後にスピーチの場を設けられた彼は、FC東京サポーターに向けられたマイクスタンドをアウェイ側に向けて、マリノスサポーターに挨拶をした。
スピーチはホームサポーターに向けて行うのが通常だが、彼の人格が窺えるシーンの一つだろう。
ぜひ、彼のスピーチを見ていただきたい。
サッカーファンは勿論、彼をよく知らない人でも彼の人となりが知れるであろう。
スピーチを置き土産に、久保建英は海を渡った。
東京オリンピックまで
久保建英が契約したのは、レアルマドリード。
バルセロナと並ぶスペインの、世界のビッグクラブの一つ。
獲得タイトルは欧州にとどまらず、クラブNo.1の称号も手にした名誉あるクラブに、18歳の日本男児は白羽の矢を立てられた。
大ニュースだった。
前例がなく、注目でしかなかった。
たくさんのメディアで取り上げられてレアルマドリードの一員となったが、2019-20シーズンの出場機会はなかった。
彼は出場機会を求めて、マジョルカに移籍した。
レアルマドリードでプレイするために。
活躍して、日本代表に選出されるために。
35試合で4得点という活躍を残したものの、復帰は叶わずに翌年もレンタル先でのシーズンとなった。
2020-21シーズンのレンタル先はビジャレアル。
13試合に出場するも得点は記録できなかった。
同シーズンにレンタル先をヘタフェに移すものの、18試合1得点と目を引くような活躍はできなかった。
彼の中で多くの葛藤があったと思う。
活躍できず、悶々とする瞬間もあっただろう。
シーズンの結果から想像するに、コンディションが良いとは言い難い。
そんな中、久保は東京オリンピックのメンバーに選出される。
五輪メンバーに選出されたことについて、スペインの大手紙「Mundo Deportivo」はこう記している。
実際に彼にもこのような思いはあったであろう。
オリンピックは2021-22シーズン前最後のアピールタイム。
ここでメダルを取って、レアルに復帰する。
そんな観点からも、東京で開催される大会は特別なものだったことに違いない。
天国と地獄
東京オリンピックが始まった。
日本が対戦する相手は、南アフリカ、メキシコ、フランス。
強豪が揃い、グループステージ突破は簡単ではないとの予想。
初戦の南アフリカ戦。
後半26分に久保のペナルティエリア付近から放ったシュートは左ポストに当たるもゴールに吸い込まれ先制した。
これが決勝弾となり、初戦は白星スタートとなる。
続くメキシコ戦、フランス戦でもゴールを決め、日本は3連勝で決勝トーナメントへ駒を進めた。
フランス戦の後は謙虚に話す久保だが、ゴールを決めた時の彼の姿は無邪気な少年そのもので見ている人まで嬉しくなる。
この勢いのまま決勝トーナメントへ進み、準々決勝のニュージーランド戦はPK戦の末に勝利した。
続いて、準決勝のスペイン戦。
準々決勝同様にスコアレスで延長戦を迎えたが、途中出場のアセンシオにミドルシュートを決められ敗戦。
久保を含め前線は2試合連続の無得点となり、金メダルへの道は閉ざされた。
かねてから金メダルを目標に掲げていた日本代表の選手たちの落胆具合は、試合後にひしひしと伝わってきた。
そう話した久保も放心状態で、言葉を紡ぐことさえ覚束なかった。
そして、2021年8月6日。
3位決定戦のメキシコ戦を迎える。
グループステージ以来の再戦となったこの試合は、前半にPKとセットプレーからメキシコが2点を奪い、後半にもゴールを決めて3点差とした。
日本は途中出場の三笘薫が1点を返すも、反撃虚しく試合は1-3で終了した。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、選手たちは崩れ落ちた。
中でも、久保は人目を憚らずに涙した。
サッカーファンは、久保がここまで号泣する姿を初めて目にした。
彼の中でこの大会にかける思いは相当なものだったであろう。
自分が金メダルに導くんだ。
日本開催だから、結果を必ず残さないといけない。
実際に、3試合連続ゴールという結果でグループステージ突破に大きく貢献した。
だからこそ。自分が結果を残したからこそ。
メダルという目に見えた結果がないと意味がない。
手ぶらに帰ることになって、何も残らない。
それだけでなく、久保建英は日本を背負っていた。
幼い頃から超名門のバルセロナに入団し、世間やメディアからはずっと注目をされていた。
東京五輪世代。何年前からそう囃されていたであろう。
久保建英は幼い時から小さい体で年齢以上に大きな期待を背負っていた。
オリンピックの時も、彼は金メダル獲得を義務として感じていたのかもしれない。
天才は孤独な存在なのかもしれない。
彼は20歳という年齢で、日本を背負っていた。
筆者も久保と同じ20歳だが、私にはそんな覚悟もないしその状況自体に想像がつかない。
だからこそあの日、彼が抱えていたものの偉大さ、重圧を身に染みて感じた。
日本代表のエースへ
東京オリンピックからそろそろ1年が経とうとしている。
2022年はカタールW杯の年。
そして、執筆している今日6月6日は国立競技場でブラジルと対戦をする。
久保建英は日本代表に選出され、今日の試合にも出場する可能性がある。
私は同級生としても、久保建英を応援している。
オリンピックの悔しさを糧に、日本代表に新たな風を吹かせてほしい。
全てを抱える必要はないが、たくさんの期待を背負って、もっと強く、逞しくなってほしい。
カタールW杯に留まらず、今後の日本代表のエースとして、久保建英は羽ばたいてほしい。
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