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鈍く、褪せた秋

去年ぐらいから、鮮やかな紅葉に対して、飽き、物足りなさを感じるようになった。ネットや広告に流れる彩度の飽和した写真たちに食傷気味ということもあるが、極彩色のモミジやイチョウばかり追いかけていると、秋を見ているのかスタンプラリーをしているのかわからなくなってしまう。さりとて、市井の紅葉にも美しさがあるはずだと思いながら、なかなかそれをすっきり自分の中で味わい、楽しむこともできずにいた。

そんな秋の終わりに見た當麻寺の東塔は、ひとつの啓示のような出会いだた。

寺の裏のこんもりと生い茂った竹藪の奥、高台にひっそりとたたずんでいる天平時代の三重塔。近世以前に建立された東西両塔としては日本で唯一残る組のかたわれで国宝、というなかなか位置づけにもかかわらず、とても地味な扱いだ。前から脇から伸びる竹と笹のせいで、真下に行くまではその全容が見えない。けれども実はそのおかげで、塔を見たい人は必ず近づいて、そして下から見上げることになる。すると視界いっぱいに無数の木組みからなる屋根裏が広がる。整然と並ぶ垂木と、ごつごつとした柱。朱色はほとんど落ち、白塗りもほとんど剥げているのだけれど、木組みは依然として堅牢で、精緻なリズムを保っている。その構造の妙と相まって、塗料の鈍った色は結果的に時間が生み出した新たな魅力となり、綺麗というのとは違った美しさを生み出す。鈍さ、渋さ、褪せ。誉め言葉ではないはずの言葉が、むしろその魅力を表現する。
伽藍の他の建造物も同様に、褪せた魅力を持っていた。京都よりも奈良という人に時々会うけれど、きっと彼ら・彼女らはこの判然としない中にある美しさに魅入られているのだろう。東塔はその中でも、全容を一目で把握できないという歯がゆさ、曖昧さがさらなる神秘性を生み出し、だからこそ惹きつけられたのかもしれない。竹藪の中で、静かに対峙する時間もその感覚を増強させてくれた。

東塔を堪能した後に、金堂の中で5メートルほどもあろうかという仏像と対峙していたら、細く開いたお堂の扉からすっと日が差してきた。曇天のわずかな日の光が、ぼんやりとした、かろうじて人間と分かるかどうかといった自分の影を奥の柱に投げかけた。

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