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自由が欲しい?

自由って「自分を曲げる」ことなのか「自分で曲がる」ことなのか。前者は不自由な気がしてならない。
語源をきちんと調べれば正解はあるのだろうが、自由について述べる以上、正しさよりは感性に従うべきだと思った。
自由と言うのは本当に良いことなのだろうか。自分は自由人なんで。と言って海外をあちこち飛び回る人はフライト時間に遅れない様に早めに空港に向かったり、飛行機では携帯も使えず、大量の液体すら持ち込めない。陸にいれば守らなくていい制約だけでもかなり存在する。
たぶん自由人の方は「それは好きなことをする為の延長だから不自由とは思わない」と言いたいのだと思う。
それこそが僕の言いたいことで、自由を手に入れるためには不自由がついてくるという点だ。
何事にも対価は必要で、当たり前っちゃ当たり前なのだが、結局自由なんて全ての人が今持っているものなのではないだろうか。と言うことを言いたい。

海外の件において、自由なのは「海外に行く」と言う目的設定の段階1点のみで、それまでの道程はほとんどが不自由で埋め尽くされている。
お金を用意しなければならず、交通手段を選択し、日時を設定する。これらを全て、目的達成の為の必要事項だと無視できるのであれば、やりたい事を思い浮かべた時点で既に自由を手にしたことにはならないだろうか。
例えばとんでもない牢獄に無実の罪で閉じ込められている青年がいるとして、この青年が「脱出したい」と強く思うとする。
そうすると、脱出するために檻を出る方法を考え、盗む馬を選択し、追手を巻くための爆薬を作り、みたいなやらなければならない必要な事柄は無視できる。
これは海外の件の人と全く同じ状態だ。
人は何を思うのも自由で、何をするのにも不自由であると言う事実がそこにはあった。

で、そんな詭弁で自由という文言の価値だけを下げたとしても何も解決しないし建設的では無いので、もう一つ別の角度から自由について疑問を投げかけたい。
自由とは本当に良いものなのだろうか。

自由と不自由はコインの表裏の様に、片方では存在してないと僕は思う。
サッカーを自由にしていいと言われてもルールに乗っ取らなければ始められもしないし、そもそも主語がついた時点でそれ以外の主語は締め出されるわけだから不自由となる。
真ん中できれいに踊れたら1点というサッカーをしていました。と主張するやつが現れたとしても、自由でいいと言われたら納得するしかない。かくれんぼをするって言ってたのにお尻を出した子が一等賞などと急に言われたら自由ってなんだろう。人間を君たちは羨んでるけど、人間ってそこまで自由じゃないからね。と言いたくなりはしないだろうか。
自由の女神ってあんなにいろんな人の目に晒されて、あの台座から動くこともできなくて何が自由なのだろうか。両手に何か持たされて手すら塞がっている始末だ。

そうなるとやはり最初の話に戻ってくるのだが、人が欲しがる自由っていうのは突き詰めていくと、最初の目標や目的の設定だけなんだと気付かされる。
そもそも決断力に乏しい日本人の多くは自由など本当は求めていないのではないかとさえ思う。
多感な時期に席替えだけ宣言されて、どこ座ってもいいと言われたらどの席も座りにくいし、通信簿も5段階評価で、どれつけてもいいってなったら、全員がオール5になり、頑張り甲斐も消え失せる。
入試問題が全て自由記入だったら嫌だし、新卒で入ったばかりの会社で何やってもいいと言われても困る。プロポーズしてどっちでもいいと言われたら神父の前で何も誓える気がしないだろう。

僕らの欲しがっていた自由はまやかしだ。
というか既に手にしているしいつだって手にできるんだ。
味の民芸に行って、あまりのメニューの多さに、自由とは一体何なのかを考えるに至った。


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