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「教わる」を忘れた人たち

 本などの資料から根拠を示さずに憶測や独断で物を言う人に対して厳しいことを言ったりすると「知識マウント」とか「スノビズム」とか「知識はそんな大事じゃない」みたいに言われて、ほんと「知性」とか「博識」とかそういうものが嫌われる世の中になったなと。

 たしかに、知識人たちのスノビズムは嫌いだが、そういう知識人が増えたのは結局、「反知性主義」的な人たちが「自分を超えた大いなる知」みたいなものを尊重しなくなったからでしょ、としか思えない。

 そりゃ、頑張って知識を蓄え、世の中のために貢献しようとした知識人たちを無知な人々が「あいつは何もわかっちゃいない」とか言い出したら、そりゃ知識人だって人間なのだから怒るだろうし、少なくとも無知な人たちよりは「知識人である自分の方が賢いんだぞ」というようなスノビズム的な態度を取りたくなってしまうものだろと思う。(それが良い事とは思わないが、そうなってしまうのも仕方がないという意味で言っている)。

 今の人は「無知を恥じない」というか「無知で何が悪い?むしろ知識で威張んな」みたいな人が多くて、ほんと馬鹿が威張る社会になったなと。

 私は自分より賢い人は尊敬したいし、そういう「自分を超えた大いなる知」みたいなものに触れる機会を大事にしたい。

 「今の人は『学び』はするが『教わり』はしない」みたいなツイートがそこそこバズってたが、本当にそうだと思う。

 自分一人で何かを学んで何でもできると思い込んでいる人間は、人間として幼すぎる。

 そもそも自分一人で経験することから学べることは限定的過ぎてあまり社会の複雑さに向き合う上では役に立たない。誰かから自分が経験していないようなことを教わらないと向き合えないような問題が社会は多い。

 例えば、教育心理学者の安藤寿康も次のように言っている。

 私たちの社会は、自分一人の力だけでは学べない膨大な知識の上で成り立っており、社会はつねに解決しなければならない問題に満ちています。その社会に適応し、自分が直面する社会の問題を解決するためには、その社会をつくりわれわれを生かしてくれている知識を誰かに教えてもらわなければいけません。(安藤寿康 『日本人の9割が知らない遺伝の真実』)

 いまはそういうことが理解できず、自分の経験と勘だけで何でもわかると思い込んでいる無知な人が多い。私の言葉で言えば感受性万能主義者たちだ。

 自分一人では経験できないことを、例えば読書などを通して、他人の経験に触れ、他人から教わるということが大事だったりするわけで、そういう経験をしてない人が多すぎる。

 今の人は時代感覚がおかしいというか、社会の複雑性を理解していない人が多すぎると思う。自分一人の経験から社会の法則性というか、真理みたいなものに気がつけると本気で思い込んでる人が多いというか、そういう経験主義みたいなものが人を愚かにするのだなと思う。

 「愚者は経験から学ぶ」とは言うが、本当にそうで、愚かな人ほど自分の経験を一般化させたがる。その結果、社会には自分とは違う人がいることに気がつけない人が多い。

 私が文章を読めない人を馬鹿だと批判するのも(一番は)その理由で、要するに他者から教わるということをしないで、自分一人の経験から学べることだけで世の中のすべてがわかった気になる人が多いのが良くないということだ。

 自分を超えた知というものは絶対に社会に存在するわけで、そういうものに触れようとせず、自分一人の経験だけで全てを理解できると思い込んでいる人は無知の知がない馬鹿だとしか言えない。

 私は自分が無知であることを誰よりも知っている。だから、本を読んだり、新聞や論文、場合によってはweb記事などを読んで自分を超えた他者の知に触れようとするわけで、そういうことをしていない馬鹿な人を見るとやはりイラっとする。

 そもそもだが「教わる」ということを知らない人たちは本当に「学ぶ」ということも出来ているのだろうか、と疑問に思う。というのも、学んだ気になっているだけで、本当は間違ったことを覚えているだけではないかと思うからだ。

 最近、執筆した記事にも書いたが、例えば「まとめサイトを読むこと」を「学び」と言い換えているバカな人がいたりする。

 そもそもだが、まとめサイトなど信憑性が低い場で何かデマ(間違ったこと)を覚えていても何の学びにもなっていない。それは間違ったことを覚えただけで、むしろ最初の状態よりも頭が悪くなっていると言える。

 よく漫画を読んだりゲームをしたり、まとめサイトを読んだりして遊んだことを「学び」と言い換えて何か賢くなった気になっている人がいるが、第三者の視点から言わせてもらえば、「ただあなたは遊んでいただけで何も学んでいないよ」としか言えない。

 そもそもだが、それが学びになるなら学校で何故辛くて退屈な授業を受けたり、家で学校から出された宿題をしたりしなくてはいけないのだろうか。家に籠ってゲームやまとめサイトを読んでいるのが学びになるならほとんどの人はめんどくさい勉強はやめて、すぐにゲームやまとめサイトの方に飛びつくのではないだろうか。

 だが、実際はそうはなっていない。専門的に見れば(常識的に見てもだが)ゲームや漫画やまとめサイトを消費することは学び(学習)ではない。(まだ、学習用にデザインされた漫画やゲームなど一部は例外があるかもしれないが、ほとんどの漫画やゲーム、まとめサイトは「学び」にはならない)。

 そういう馬鹿な人はもう少し、自分の無知に気が付いたほうがいい。改めて思うが、今は無知を恥じるどころか、無知を礼賛し、知性を冒涜する社会、教育学者の齋藤孝の言葉を借りれば「バカ肯定社会」だろう。

 ところが、ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中の空気が一気に変質してしまったのです。(齋藤孝 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』)

 私はハッキリ言って、学ぶことや教わることを嫌い、ただ快楽にふけっているだけなのに「自分は全てがわかる知力を持っている」と自惚れている人がこの世で一番嫌いだ。

 バカは自分が全てを見通せている(あるいは見通せる)と自惚れている。このことは心理学者のセルジュ・シコッティも指摘している。

 まわりをコントロールしたいという欲求は、まわりをコントロールできているという幻想を生みがちだ。とりわけ、バカはその傾向が強い。(中略)バカは、自分にはすべてを見通す力があると思い込んでいる。(ジャン=フランソワ・マルミオン 編 『「バカ」の研究』)

 なぜ、バカが全てを見通せる力があると思い込んでいるのか、その理由は本垢で執筆した「賢さについて」という記事を読んでほしいので、説明は割愛する。

 だが、心理学的に見ても「バカは自分にはすべてを見通せる力がある」と盲信し、「他者の意見を聞こうとしない。他者から自分を超えた知について教わろうとしない」傾向があるということだけは重要なことなので強調しておく。

 バカな人というのは自分の経験だけで憶測や独断を言うことが多い。何故なら、他者の意見の重要性を理解していないからだ。

 本やその他あらゆる文章も読まず、他者の意見を知ろうとせず、自分を超えた知に触れようとせず、自分だけの経験で何でもわかると思い込んでいる。それでいて、その馬鹿に間違いを指摘したり、知らないことを言おうとしたら「知識マウント」だとか「ロジハラ」だとか言い出すのだからもはや今の世の中は正常ではない。

 知識は大事にしないし、知識から導き出される正しさよりも感情や気持ちみたいなものを優先にすることが良い事であると本当に勘違いしていたりする。それを「優しさ」だとか「平等」だとか本気で勘違いしている。

 知性を大事にしない社会、正しさを軽視する社会というのは少なくとも存続することが難しいように私には思える。感情的に見て、自分にとって都合のいいように物事を決めるのではなく、知性的に物事を考え、たとえ現実が厳しくても正義に根ざした社会に戻す必要があるのではないだろうかと私は思う。

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