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日常から何かを学んだ気になっている人の偏見がもたらす社会的な有害性について

 よく、自分の日常からの「学び」について記事を書いている人を多く見かけます。「○○という日常での経験から△△ということを学んだ!」というような記事です。記事を書いた本人としては、自分の経験(体験)で素晴らしいことを学んだのだからその学びを他の人にも分け与えたいという善意からの執筆なのでしょう。

 そういう経験からの学びと言うのが大事じゃないとまでは言いませんが、経験だけで何かを学んだ気になるのは危険です

 というのも、自分の日常から学ぶことには偏見が多く入り込む余地があるからです。経験をどのように解釈するかは経験者次第ですが、その解釈は偏見である可能性もあるのに、その人の経験系釈を社会全体的な事実として一般化させたがる人が多すぎます

 「私が○○という日常での経験から△△と学んだのだから、みんなも△△と学べるはず」というような自分の経験から学んだことに偏見が入り込んでいる可能性を一切考慮できない人が多いですし、しかもそれを「インプットした」とか「学んだこと」とか軽率に言いすぎだと思うのです。

 しかも、そういう人の言う経験は、たった一回何かを経験しただけで、「何回経験しても△△だと学べる」と思い込んでいたりします(二回目の経験では全く違う結果や解釈を得られるかもしれないのに)。

 でも、当たり前ですが、そういうのは危険なんです。個人的に経験をどのように解釈し、そこから何を学べると考えるかは自由ですが、それは「あなたにとってはそうかもしれない」というだけの個人知に関するもので社会全体について論ずることが出来るような集団知ではありません

 偏見かもしれないことを「学び」とか「インプット」と考えるのは危険です。その偏見かもしれないことを「学んだこと」「インプットしたこと」として、社会に偏見を、さも真実であるかのように拡散するのは(本人は有益な情報や知識を発信しているつもりでも)社会的には有害でしかありません

 自分の経験だけで何かを学んだ気になって偏見をばらまいている人が多すぎます。もう少し、自分が経験から学んだと思ったこと、インプットしたと思ったことが、大勢の他者(社会)から見ても事実であるのか、それとも偏見であるのか客観的な情報(例えば、本で調べるとか新聞で調べる等)で調べる癖をつけたほうが良いと思います。

 自分が経験したことは絶対的に正しい。自分に偏見などあるはずがない、と思い込みたい気持ちも分からないではないですが、人間誰だって(私も)偏見はあるのです。だから、偏見なのか社会的に見ても正しい事なのかを調べるリテラシーが必要になるのです。

 繰り返しになりますが、自分の経験だけから何かを学んだと結論付け(執筆す)るのではなく、一度、自分の経験を疑い、本や新聞などで客観的に調べ(てから記事を執筆す)るのが大事なんです。

 客観的な情報を集めて、記事を書くのがめんどくさいと思うなら調べなくても構いませんが、その代わり、「自分の経験から学んだこと。その学びを与える」というような記事を執筆するのもやめてください。それだけのリテラシーがないのであれば、社会全体的なことについて述べる事を出来るだけの情報や知識はないのですから偏見かもしれない個人の経験を根拠に何かについて論じるべきではありません。客観的に情報を仕入れる気がない人は自分は社会的(世間一般的)なこと論じることは出来ないと自覚し、執筆する内容を考え直してください。

 そもそも、個人の経験を根拠にしても、根拠としては駄目な根拠ですし、そこから他人へ有益な情報や知識の伝達は基本的に不可能です。


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