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環境問題を語る人は"仙人"でなきゃダメなのか?

環境問題を語るとき、必ず言われることについて書いていこう。

そもそも環境問題に関心がある人間は「意識高い系」と言われがちです。彼らの発言と普段の生活を照らし合わせて「あなたのやってるそれ、環境に悪いですよね。言ってることと矛盾してませんか?」とあげつらって批判されることがよくあります。
日本でも海外でもそれは共通のようで、気候変動の環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんが国際会議に出席しようと、敢えて飛行機に乗らずヨットで大西洋を横断した際には「そのヨットを作るのに大量の温室効果ガスが出たのをご存知ですか?」と言われ、鉄道で移動する様子をSNSに写真をアップしたときには「あなたが食べてるサンドイッチ、プラ容器に包まれてますよ」と揶揄されていました。

誰かに命じられたわけでもないのに、彼ら"環境警察"の仕事は、中学2年時の服装検査と同等の厳しさで「整髪料を使っている」「柔軟剤の匂いがする」「制服のボタンが通常よりもキラキラしている」といった、ときに理不尽なジャッジをしてまで環境対策の矛盾を看破しようとしてきます。

「環境問題を語る人は、完璧にエコな暮らしをしている人でなければならない」という風潮が、どうしても人々の意識にあるようです。想像するに環境問題を語る資格がある人とは、以下のようなイメージではないでしょうか。

食べ物はすべてヴィーガン。着る服はオーガニック天然素材。電気は極力使わず、雨水を溜めてシャンプーしていて、蚊も殺さない自然愛好者。

要するに仙人です…。
万人がそんな生活が可能かと言われたら当然NOであり、明日から「温室効果ガスをまったく排出しない生活をしろ」「プラスチックを一切使わない生活をしろ」と言われたら私も無理だと答えます。スーパーに行っても何も買えなくなり、生活手段の確保に手一杯で、まともに社会生活が送れなくなるでしょう。

環境警察の人々に何か言うつもりはないのですが、私がもったいないなと思うのは「環境問題を語る資格があるか?」という厳しい視線は、他者だけでなく自分自身にも向けられているのではないか。そして、これが社会全体の大きな損失になっているのではないかと思うのです。

「0か100か」で語られがちな環境問題

環境対策を「0か100か」の二元論で考えてしまうことの問題点は2つあります。

1.自分はエコな生活をしていないから…と、普通に暮らす多くの人が環境問題を声に上げたり行動を始めるのをためらってしまう。「罪悪感」の刻印

2.環境保護推進派(ナチュラリスト)の人が、自分の身の周りだけをエコな暮らしにして、それで満足してしまい、社会システムの変革までいかない。「免罪符」の役割

まず1.について、「自分にはエコをやる資格がない。やったところで完璧にはやれないから意味がない」と考えてしまうのは、物事を定量的に判断することの重要さを欠いています。発電にしても食糧生産にしても、環境負荷がゼロの方法というのは現在存在しないので、いかに少ない負荷で同じ目的を達成できるかが鍵となります。

現在、日本人一人あたり年間7.1トンのCO2を出していますが、NHKの記者の方の検証記事では、今やれる脱炭素の選択肢をすべて実行すると3.4トン削減できるという結果が出ています。2030年までの目標は一人あたり3.9トンなので、十分なインパクトがあるといえるでしょう。(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210907/k10013238301000.html
もちろん、職業や立場によって取れる選択肢は異なります。いま選べる選択肢の中から少しでも「マシ」なものを選び、さらに「もっと良い選択肢を新設する」ように、企業や政府に要求していくこと。そうすることで多くの人が、温室効果ガス削減に参加できるようになります。普通の人が関心を持ち、定量的に環境負荷を減らしつつ、声を上げることはちゃんと意味があるのです。

そして2.も意外と問題です。そもそも環境問題が何も存在しなくても、ナチュラリスト(自然愛好者)の人はいます。そうした人々が身内のみでエコな暮らしをして「私は十分にやった」と満足してしまうのでは、ただの生活上の「嗜好」で終わってしまいます。
日本は2050年にカーボンニュートラル(温室効果ガスの排出量と森林等による吸収量が釣り合ってゼロになった状態)を目指すと宣言しました。それは個人レベルでできる「工夫」や「節約」を積み上げて達成できるレベルではありません。政治を動かし、エネルギー政策などの社会システムを変え、まったく関心が無い人であっても温室効果ガスを排出しない状態になっていないといけません。そのためにはやはり、社会変革が必要不可欠なのです。

どんな人でも環境問題を叫んでいい

さてここで『人新世の「資本論」』がベストセラーになっている経済思想家の斎藤幸平さんが、胸にズシンと来ることを言っていました。

牛丼を食べながらでも、気候変動問題に声を上げてもいいんです」と。

説明すると、気候変動問題において、牛肉の生産は食材の中でも特に温室効果ガス排出などの環境負荷が高いため目の敵にされることが多いのですが…しかし、仕事で疲れて帰ってきたサラリーマンに、毎日スーパーに行ってオーガニックの野菜だけを買って自炊して食べろ、というのは酷な話です。
仕事でヘトヘトで明日も早く起きて仕事に行かなければならない、となると帰りのコンビニで弁当を買ったり、駅近くの牛丼屋で夕飯を済ますのは普通のことです。つまり、今ある社会システムにある程度依存してしまうのは仕方ないと。しかし、そんな人であっても、気候変動問題に声を上げてもいい のだ! と斎藤さんはおっしゃっています。

片足は今の社会システムに置きながらも、もう片足はアップデートされた新しい社会へ踏み出そうとしている──その姿勢を企業や政府に対して示すことこそが重要で、そうすることで社会が少しずつ変わっていきます。

ですから普通の人こそ、気後れせずに環境問題にどんどん声を上げてほしいと私は思います。心優しい人や自己矛盾を感じやすい人ほど、口をつぐんでしまうのかもしれません。
揶揄してくる人はいるでしょうが、それもまた自然なことです。「心理的リアクタンス」(外部から行動の自由を脅かされると、反発心が生まれて、自己の自由を回復しようとする作用)により、新しい生活様式に難色を示す人は必ずいますし、もしかしたら他人のエコを見せられると、己の罪悪感を刺激されて「偽善だ」と指摘したくなるのかもしれません。彼らもまた「0か100か」の二元論に囚われているのです。

仙人を目指す必要はない

山田玲司さんの漫画『ココナッツ・ピリオド』で印象的なシーンがありました。温暖化問題をド直球に描いたこの漫画の主役のココナッツ博士(天才的な頭脳を持つウサギ)の自宅には、外壁に独自の高効率の太陽光パネルが設置されており、オフグリッド(電線とつながっていない)で電気を自給しています。しかし家の中に入ると、いたる所の電気がつけっぱなしで無駄に消費しているのです。
「博士、全然エコじゃないですよ!」と問いただされると、
「自分で作った電気をどう使おうと自由だろ」と博士は堂々と答えます。
私たちは、この博士のスタンスを最終的に目指すべきではないでしょうか。根本のシステムを変えてしまえば、あとは「節約」も「我慢」もしなくても温室効果ガスを当たり前に排出していない状態となる。環境問題のゴールは、仙人になることではないのです。

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