多様性と東洋医学
ふと思い立ったので記録的な面も含めて投稿しておきたい。
東洋医学の「弁証」に始まる様々な分類分けは、とにかく面倒くさい。
ただ、良い面を発見したのであくまで記録とて。
面倒くさい側面には分類の多さにあると思う。
気と血の虚実だけにみえて、勉強を進めたら「五臓六腑」を含んだ分類になったり、「鬱」や「火」等が前後で入れ替わったりする。
何か大きな違いがあるのか分からない分類が多く面倒くさい。と思っていた。
しかし、今風の多様性として考えてみると約2,000年前の先人は、より患者を詳細に分類したかったのかもしれない。
個々人を身体的な特徴から生い立ち、現在の症状、家族背景まで含め「雑に」分類することなくより「特徴を捉えた」分類に。
話は逸れるが、これを考えたのはYouTubeをみてて。
履歴書を「経歴をみる」から「経験をみる」に変えたほうがいい的な内容。
経験を買い出したら結局今と変わらずに裕福な家庭が有利になる的な反論もあり。
結局にところ我々人間は「自身の特徴」をみつけることが得意ではないのだと思う。
だから「経歴」や「過去の経験」を元にみせるしかできないのかもしれない。
そしてより存在感のある自身を示すために、痛みをはじめとする身体的な違和感で表現してしまう。
そして時にリストカット等の自傷行為にはしり、自殺につながったりする。過激に外に向けばテロ的な行為に発展するのだろう。
だから、東洋医学の分類分けはそれを助ける存在と考えてみた。
「鬱」や「火」の前後が違うように、より詳細に分類してあげることで、その分類、タイプ分けを拠り所にしてもらう。
ある種の「自身の特徴」として捉えてもらう。それでも身体的な違和感を覚えるだろうから「五臓六腑」まで持ち出して。
何が言いたかったのかまとまってないが、西洋人からみたら東アジアの人間はだいたい同じように見える。
「身体的な特徴」が微々たるものでしかない。その影響でか承認を得る方法があまりない。
そこにモヤモヤが生まれ、その発散を人に向けたり内に向けたりするのかもしれない。
そのモヤモヤを「証」として伝えることで示してあげる。ある種の特徴として。
だから多く分類する必要があったのかもしれない。
それが多様であった理由であるなら面白いなと。
多様性が叫ばれる現在は、叫ばれるからこそ皆が個々人の特徴をみつけられずいるともとれる。
より「学」を深めた東洋医学に関わる先生方が、この「弁証」という分類分けで多くの人の心までも救ってくれたらいいなと思いながら。
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