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現役早稲田生がエーリッヒ・フロム著『愛するということ』を要約してみた②~何故人は愛を求めるのか~

前回は「愛は技術である」という大前提を確認した。

第二回となる今回からは、この本の大部分を占める愛の理論について、できるだけ分かりやすく要約していこうと思う。

そこで今回は本格的に愛の理論に入る前に、

「何故人は愛を欲するのか」

という事について見ていきたい。導入ではあるが侮ってはいけない。既に愛の理論の入り口に立っているのだから。導入は常に全体像を含んでいるものだ。

何故人は愛を欲するのか
近年、「承認欲求」や「自己肯定感」という言葉をよく見聞きするようになった。とにかく誰かに認められたい、求められたい、必要とされたい。
現代にはそんな人たちが溢れているように思える。

そんな彼らに共通して言えるのは「愛に飢えている」ということではないだろうか。

前回で確認したように、愛において重要なのは「愛されること」ではなく「愛すること」である。(本書のタイトルが『愛するということ』であることからもそれが伺えるであろう。)

そのため彼らが常に愛に飢えているのは、誰かを愛そうとせず「愛して欲しい」というスタンスでいることが大きな原因なのだが、、、

しかし愛を求めてしまうのは人間なら当然の心理だ。

なぜなら「愛」こそが、我々の孤独感や不足感を満たす、唯一の答えだからである。

我々は常に孤独感を抱えながら生きているが、その原因は「理性の獲得」にあるとフロムは述べている。これは一体どういうことなのだろうか。

人間がまだ理性を持たない動物であったとき、恐らく彼らは「愛」について考えることなどしなかった。

なぜなら、自然とともに生きていた彼らは「本能」にしたがって生きており、空腹になれば食べ、眠くなれば眠るという至極明快な世界の中で生きていたからだ。

自然と一体化していた原初の状態では、人は母の腹の中で生きる胎児のように、何も考えず、ただ安心して生きていられた。

しかし動物であった彼らはいつしか「理性」を獲得して人間になった。自然環境に対して本能的に適応するのではなく、自然を超越し、自然を利用するようになった。完全に自然から引き離されてしまったわけではないが、一度離れてしまうともう戻れない。人は原初の調和した状態から逸脱してしまった。自然との調和を失った人間に出来るのは、理性を発達させ新しい調和の形を探すことだけであった。

人類全体の誕生にしても、個人の誕生にしても、人は生まれると同時に本能が支配する明快な世界から混沌としていて不安定な世界へ投げ出される。

このことについてフロムは以下のように述べている。

人間は理性を授けられている。人間は自分自身を知っている生命である。
人間は自分を、仲間を、自分の過去を、未来の可能性を意識している。
そう、人間はたえずこのように意識している。
人はひとつの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意思とはかかわりなく生まれ、人は自分の意思に反して死んでいく。
愛する人よりも先に死ぬかもしれないし、愛する人の方が先に死ぬかもしれない。人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。
こうしたことすべてのせいで、人間の孤立無援な生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいる他の人びとと何らかの形で接触しないかぎり、人は正気を失ってしまうだろう。

p21, ℓ6-13

孤立の経験から不安が生まれる。人は完全に孤立してしまうと正気を保ってすらいられなくなる。多くの人も知っていると思うが、それほどに孤立とは恐ろしいものだ。

また、恥や罪もここから生まれるとフロムは言う。

本書ではその例として、アダムとイブの話が用いられている。

「彼らは知恵の実を食べたことで理性を獲得し、人間となった。そして自らが裸である事を恥じた。」

この古い神話が示しているのは、当時の性道徳、つまり「性器が丸見えなのは恥ずかしい」ということではない。

この神話の要点についてフロムは以下のように述べている。

男と女は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、別々の性に属している異なった存在であることを知る。しかし、自分たちがともに孤立した存在であることは認識していても、ふたりはまだ他人のままである。まだ愛し合うことを知らないからだ。----------------
人間がそれぞれ孤立した存在であることは知りながら、いまだ愛によって結ばれることがない。ここから恥が生まれる。同時に罪と不安もここから生まれる。

p22-23 ℓ15-21

孤立の経験から不安、恥、罪が生まれる。それならば人間が孤立を克服したいと願うのは至極当然のことである。つまり人間の最も強い欲求は、

「孤立を克服し、孤立から抜け出したい」

ということなのだ。

そしてそのために人類は今まで様々な方法で孤立を克服しようと試みてきた。人類の試みについて、フロムは3つの例を挙げている。

孤立克服の試み① 祝祭的興奮状態

1つ目は、お祭りの乱痴気騒ぎのような、祝祭的興奮状態だ。この方法は原始的な部族に多く見られる。この方法では、つかの間の興奮状態によって外界からの孤立感が消滅する。また、こうした儀式は集団で行われるので周りの人との一体感が加わり、尚更効果的に孤立を解消する手段となる。こうした興奮状態による合一体験は強烈であり、一時は孤立を忘れさせてくれる。しかしその一方で長続きしないので、定期的に行われる必要がある。

孤立克服の試み② 集団への同調

2つ目は集団への同調である。この方法は過去から現在において最も多くの人々が用いてきた孤立解消の方法である。集団に同調すれば個人の自我が消え去る代わりに、集団の一員になることが出来る。集団に同調することで、「孤独」という恐ろしい経験から救われるのだ。集団への同調による合一が持つ性質は「穏やかで、惰性的」であることだ。したがって、孤立から来る不安を癒やすには不十分である。アルコール依存症、セックス依存症、自殺などは集団への同調が必ずしもうまくいっていないことの現れだとフロムは言う。しかしこの方法にも利点がある。それは断続的でなく、長続きするということだ。一度集団への同調を覚えれば、その後集団との接触を失うことはない。少なくとも半永久的的に「完全なる孤立」からは救われるのである。しかしやはり孤立を完全に解消することはできないので、完璧な方法とは言えない。

孤立克服の試み③ 創造的活動

3つ目の方法は創造的活動だ。これには芸術的なものもあれば職人的なものもあるが、どのような種類の創造的活動であるにせよ、創造する人間は素材と一体化することができる。テーブルを作る大工も、宝石を美しく磨き上げる職人も、働くものは素材と一体化する。しかしこのことが当てはまるのは、生産的な仕事、つまり、計画から生産まで自分で取り仕切るような場合のみである。ベルトコンベアの前に労働者が張り付いているような現代の労働では、そのような一体感は決して得られない。

孤立を克服するための完全な回答

祝祭的興奮状態による合一は一時的で長続きせず、集団への同調による合一は孤立を癒やすには不十分。創造的活動で得られる一体感は、あくまでも素材とのもので人間同士の一体感は得られない。そのためこれまで見てきたいずれの方法も、孤立の解消に対する部分的な回答でしかない。ではどうすれば我々は孤立を克服することが出来るのだろうか。フロムは言う。

完全な答えは、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛にある。

p35 ℓ7-8

と。愛によって人々は恐ろしい孤立から救われることが出来るのだと。恐ろしい孤立から完全に抜け出すには、「愛」しかないのだ。

しかし人間同士の結合にも色々な種類がある。その全てを愛と呼ぶのだろうか。わかりやすい例を挙げると、互いに深く依存し合っているカップルも、人間同士の結合と見なすことは出来るだろう。しかしそれを愛と呼んでも良いのだろうか。

次回は愛の性質について見ていこうと思う。未成熟な愛とはどういうものか、そして成熟した愛とはどのようなものか。より「愛」についての理解を深めていこうと思う。





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