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散歩中に感じる、あの恐怖の原因

最近早起きすることが何かと多いので、「どうせなら」と20分ほど散歩をすることにした。

家を出るまでがめんどくさいがなんだかんだ散歩をするのは気持ちいいし、スマホを見ているだけの時間に比べて「何かやった感」があるので、その日一日の充実度が上がる気がしている。

しかしそんな平和な散歩中に、僕は恐怖(といったら大げさかも知れないけど)を感じる瞬間がある。

それは「同じように人が前から歩いてきたとき」だ。

この瞬間僕の体は少しこわばり、どこを見ながらどう歩けば良いのか分からなくなってしまう。

恐らく自意識過剰なのだろう。人が前から歩いてくるのを見る度に、「こんな時間に散歩しているなんて変なやつだなと思われないかな」「なんだこいつっておもわれないかな」的なことが頭の中に浮かんできて、恥ずかしいような、その場に居づらいような気がして緊張してしまう。

今回はその緊張の原因について、ふと思いついたことがあったので書いてみようと思う。

人とすれ違うときの緊張の原因

まずこの緊張の原因について僕の考えを簡潔に述べると

「その人に対して自分がどのように接すればいいか分からないから」だ。

一つ例を挙げてみよう。

自分がいつも仲良くしている友達が前から歩いて来る場面を想像してみてほしい。見つけた僕は気さくに声をかけ、最近あった面白い話や、他の友達の話などで盛り上がるだろう。

では次に、何回か話したことはあるが特に仲が良いわけではない、いわゆる「よっ友」が前から歩いてきたところを想像してみてほしい。

恐らく何かしら声をかけはするが、仲が良い友達の時と比べるとどこかぎこちない空気になるのが想像できただろうか?

散歩中に他の人とすれ違うときの気まずさは、「よっ友」とすれ違うときの気まずさにどこか似ている。

二つの気まずさに共通すること

この二つの場面に共通するのは、

「自分と相手との関係性が定まっていない」

というところだ。

人間には確固とした自分というものはなく、関わる相手によって様々な性格に変化するという説を聞いたことがあるだろうか。

「自分はこういう性格だから」とか「生まれつきこういう性格だから」とかいう人がいるが、恐らくそういう人たちも誰に対しても全く同じ態度で接したりはしないだろう。

つまり自分という存在は、他者と関わるときにその都度生まれ、他者との関係性によって創りあげられる人格だということだ。

では先ほどの例に戻ろう。


・仲が良い友達が前から歩いてきた場合

この場合、自分と相手は「友達」というはっきりした関係性を持っているため、どのような態度で接すればいいのか分かりやすい。そのため安心していろいろな会話を楽しんだり、ふざけあったりすることが出来る。

・よっ友や知らない人が前から歩いてきた場合

この場合、自分と相手との関係性がはっきりしておらず、どのような態度で接すれば良いのか決めることが出来ない。つまり「自分自身」を創りあげるために必要な「他者」が足りていないため、自分が不安定な存在になってしまうような、自分が自分でいられなくなってしまうような不安を常に感じてしまう。

結論

散歩中に感じる気まずさは「相手と自分の関係性が定まっていないためにどう接すれば良いか分からないので生まれる」。これが僕が至った結論だ。散歩中にふと思いついたことをなるべくまとめようとしたのだが、なんとも煩雑な文章になってしまった。今後は文章力も向上させていければ良いなと思う。しかし恐らく文章を書くのがあまり好きではないので、まだまだ先の話になりそうな気がする。





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