『葉蔭の露』(ABCテレビ、1979年)

1979年11月9日放映、47分。
キャスト
緒形拳(西村松兵衛)、岸恵子(西村鶴)、阿木五郎、竹内照夫、今野鶏三、玉井孝(ナレーション)
スタッフ
演出:大熊邦也、原作:船山馨、脚本:野上龍雄、撮影:佐野吉保、小川宏充、西田健、沢田治、美術:野田和央、音楽:池辺晋一郎、プロデューサー:山内久司、仲川利久、進行:西川泰弘、技術:尾池弥嗣、音声:西谷高弘、音声:佐野乃武夫、音声:辻昭裕、効果:中村幸夫、編集:田中郷康、照明:並川完次、デザイン:尾上つよし、野村仁、タイトル:池内昭

夏にラピュタ阿佐ヶ谷の野上龍雄特集で上映されると聞いたが赴けないので放送ライブラリーで見る。
明治23年の横須賀を舞台に、貧しい行商の男が、長く連れ添った妻が実は信奉する坂本龍馬の元妻だったと知り、日常に亀裂が走る様子を描いていく1時間足らずの単発ドラマである。
ほとんど全篇が夫の緒形拳と妻の岸恵子の二人芝居で構成され、時に岸の大芝居に食傷というか面食らう局面もないではないが、ともあれ一分の隙もない濃密な演技合戦に圧倒されるのは間違いないだろう。
視聴者が演技に集中できるのは、この作品が極めて限定的な空間でのみ展開される点に大きく拠る。つまり、作品の持続時間47分のあいだ、キャメラはほとんどこの住居の域内におのれを縛りつづけるのだ。いや、厳密にはたしか3度キャメラが戸外に出たはずだが、その時でさえキャメラは室内の方を向いていたため、あくまで関心事は常に室内にあるといえよう。付記すれば、これはすべてスタジオ撮影である。
禁欲的な撮影の成果として、われわれは、伊藤喜作賞にもノミネートされたという手の込んだ美術に目を凝らすことが可能になる。たとえば冒頭、松兵衛が壁からべりべりと剥がす龍馬遺訓の書かれた赤茶色の半紙。その年季の入りように、彼が並大抵ではない龍馬への信奉を持つと理解される。あるいはボロボロの戸、お櫃、写真。数々の調度品が放つむせ返るほどの質感に、夫婦の鄙びた来し方が垣間見えてくる。多くの優れた映画がそうであったように、空間を限るほど、そこに圧縮された時間の香りが立ちのぼってくるのだ。その意味では、冗談でもなんでもなく、『葉蔭の露』はアケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』やドライヤー『ゲアトルーズ』と志を一にしている。
そのようにして折り重なった夫婦の時空間に、今ここにはいないはずの坂本龍馬が、偉大なる幕末の志士としてではなく、ひとりの男として、生々しく現れる。要するに、二人芝居とはいいつつも、これは古典的な三角関係のメロドラマなのだ。当然、ここでいう古典とは侮蔑的な意義を持つ語ではなんらなく、むしろ既存の語り口に真っ向から取り組む野上龍雄の野心的な挑戦にほかならない。実際、松兵衛に扮する緒形拳のみっともなさはどうか。婚姻関係にあったことを黙っていた咎で妻を怒鳴り散らしたかと思えば、夜になれば自分の体で妻の記憶を上塗りしようと試み、朝は実に穏やかな口調で等身大の龍馬について彼女に訊く。さらにその直後、鶴が龍馬に対して「旦那様」と漏らしたことで松兵衛はまたしても激昂するのだから、情緒は著しく安定を欠いている。とてもではないが褒められた人物ではない。ないのだが、あいつと俺のどっちがいいんだと詰める松兵衛のどうしようもなさに心揺さぶられぬ者とていまい。望むと望まざるとにかかわらず比較されることは、誰にでも経験のある痛ましい通過儀礼なのだから。
最終パート。この作品で最も感動的な瞬間が訪れるのはこのときである。硬く拗れたわだかまりも解け、14年後、夫婦はふたたび元の日常を手にしている。しかし、かつて予期された鶴の病苦は彼女を徐々に蝕んでいた。そして、日露戦争で東郷平八郎がバルチック艦隊を破ったという報せに世間が湧くなか、松兵衛が家に帰ると鶴はもう虫の息だった。すぐさま鶴を抱きかかえる松兵衛。鶴はなにかを囁くが、喧噪と花火にかき消されてしまう。翻る国旗。松兵衛は聞き返すが、鶴に返答する体力は残されていない。抱きあう二人をよそに、街路の騒ぎはいっそう激しくなっていく。
龍馬が欲した未来の到来を喜ぶことなく、ひとつの明治が決定的な過去に変わる。

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