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『静かな生活』(ソフラブ・シャヒド・サレス、1974年)評

アッバス・キアロスタミ同様、70年代に起こった〈イラン・ニュー・ウェーブ〉の旗手として知られるサレスは、フィックスの長回しとロング・ショットを多用し、素人俳優を起用することで、ロベール・ブレッソンにも似た静謐な映画を作り出した。 瞬く間に彼は世界的な評価を得たものの、  長篇第2作『静かな生活』(1974年)で労働階級を扱ったせいか反体制派と見なされ、祖国を追われるはめになる。それでは、転機となったこの映画はいかなる映画なのか。

住み込みで踏み切りの管理をする老人(ザドゥール・ボヤニディ)は妻(ザフラ・ヤズダニ)と寝食をともにし、つましくも過不足のない「静かな生活」を送っていた。ところが突然、役人を名乗る男が老人に定年退職を告げ、立ち退きを求める。今後の就職先や住まいを与えられず、はじめは老人もこれに抗うが、上からの命令は強力で馘首は免れない。残りわずかな日々を過ごすなか、夫婦は帰省した貧しい息子に事情を相談できなかったり、後任の若い鉄道員に夕飯を振る舞ったりして、これまでになかった生活のゆらめきを覚えだす。そして最後の日、家具を馬車に積むと、老人はひとり空っぽになった部屋に佇む。彼はおもむろに壁掛け鏡に目をやり、そして外す。

映画はここで終わる。興味深いのは、老人が鏡を見つめるこのラスト・ショットで、この映画においてはじめて鏡が登場することだ。キャメラは画面いっぱいに鏡面を捉え、そこには老人の顔の反映が映る。先に述べたとおりロング・ショットが多用されるこの映画で、老人の顔がここではじめて至近距離で確認される。無表情の彼は眉一つ動かさず、瞳に涙を湛えることも息を荒げることもない。 この反映は、 『天が許し給うすべて』(ダグラス・サーク、1955年)においてブラウン管に映った未亡人の失意の表情がそうであったように、虚ろな印象を招く。同時に観客は、その顔に深い皺が刻まれている点にも気づくだろう。大樹の年輪にも見えるこの皺からは、老人の来し方が見えてくるようだ。今、彼の胸にはいかなる思いが去来するのか。『マトリックス』(ラリー・ウォシャウスキー、アンディ・ウォシャウスキー、1999年)でも『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー、2010年)でも何でもいいが、仮にこの鏡にヒビでも入っていれば、「分裂した鏡像゠アイデンティティ拡散の危機」という図式的な絵解きも可能であろう。しかし、鏡が無傷である以上、『静かな生活』はそうした安易な解釈を拒む。

もし手がかりがあるとすれば、それは顔に求められるかもしれない。映画を見守ってきた観客の目に、老人の寂寞たる思いが感じ取れるのはたしかだが、この一語では到底片付けられないほどの鋭い感覚を覚えるのもまた事実であろう。その顔が鏡に映っており、当の老人もその反映を見つめているとなれば、老人はおのれの寂寞とも対峙しているかのようにも読める。今や老人の顔は『街の灯』(チャールズ・チャップリン、1931年)のラスト・ショット――すれ違いの果てに愛しの人とようやく視線を交わすことができたチャップリンの、泣いているのか笑っているのか判別不能な顔――より名状しがたくなる。
ただいえるのは、顔の反映が、観客にこの人物の感情を推し量ることは不可能だという自覚を促し、かえってその不可能性によって感動が呼びこまれることだ。

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