【小説】聡子とサトコ-1

空気が青くなっていく時間。駅を出てから買い物袋を下げて同じ方向を歩く勤め人達の波。信号待ちのうっとうしい時間。電動自転車に子供を乗せて走らす母親達。母親達はとりわけ皆余裕もなく面白味のない表情。そんな表情ひとつ見るだけで気分が滅入っていく。聡子が一日で一番嫌な時間だった。

保育園の入り口で会う母親には「……こんにちは」能面のような顔と口調でおざなりな挨拶をされる。ふん、こんなものだよね、と聡子は重い気持ちで独りごちる。皆誰も私に会っても、弾む話もないし用は無いって感じだよね。そのくせ、私以外の他の母親と会うと耳をつんざくような不快な笑い声をあげて話し出す。子供同士が仲良しでライバルで結構だこと。

「お疲れさまです」さすがに先生には精一杯の作り笑いで挨拶する。聡子は作り笑いがこんなに苦痛で大変なものとは思わなかった。園の先生も聡子には子供の一日の報告ほぼ無しだ。やっぱり年長クラスより、小さい子達のほうが断然可愛いし、日々心身の成長目まぐるしいので、話題も沢山あるのだ。それにしてもこちらは礼儀正しくしてるつもりなのに、皆空気のように我々親子を見る、と聡子は毒づいた。

「ねぇママ、今日はお菓子買ってきてくれた」「今日は絵を描いた」前後の話の脈絡なく次々に飛び出す主張の激しい娘の桃子のおしゃべりに、表面上だけで答えるコツを聡子は覚えた。まともに返していると、何もできなくなるのだ。無視をしてはいけないと言われているので、あくまでも「聞いてるフリ」でさーっと流すのだ。「へぇー、良かったね」「ふぅん、面白いね」

聡子はもともと空想の世界にいることが多い。空想のシャボン玉の中に浮かんで飛んでいるのだ。それなのに、日々の雑音や障害物が、このシャボン玉の膜をあっさりとパチンと壊す。聡子の脳に浮かんでいた夢もあとかたもなく塵となって消えていくのだった。その瞬間、聡子は自分以外のこと全てに対して憎しみにも近い煩わしさを感じるのだった。

流れ作業のように、夕飯の支度、長男の学校からのお知らせに目を通し、風呂、家事を済ませ、歯磨きの為に洗面台に立つ。疲れきった聡子の顔は、明らかに夢や血が沸き立つような出来事は起こりうるはずはなかった。

翌朝、子供たちを起こし、朝食づくりをし、電車に乗って会社に行くだけの、誰に見せるわけでもない自分の化粧と髪のセットをする。聡子はこの面倒な化粧も本来必要ではないことも分かっていたが、化粧が終わった一瞬だけ精気のある顔に戻るとその時だけスッキリするのだった。

顧客のうんざりするような要求を淡々と受けながら業務をこなし、定時で退社し娘を保育園に迎う。充足感が全く得られないのは、この甲斐の無い日常なのだった。子供にとっては、毎日の日課が例え同じであっても人生経験が浅いためそれなりに日々新しい発見があるから良いのだ。聡子はいわば、牢獄とは言わないまでもあと十数年はこの同じ毎日が続くのかと思うと辟易するのだった。

保育園の入り口のインターホンのチャイムを押したのち、しばらく間があってインターホン越しに先生の誰かが反応する。

「お疲れさまです、北村です」

聡子は、登降園の記録カードをインターホンのカメラ越しに見せて鍵の開くのを待った。少し間があって、相手の声は一瞬怪訝そうに答えた。

「……はい。忘れ物ありましたか?」

「……いえ、迎えに来ましたけれども」

「……え……、桃子ちゃんは先ほど迎えに来ましたよね」

先生は一層怪訝そうに言葉を途切らせながら言った。この声は富山先生だ。夫は今日早く帰るなんて言っていたか。たまたま急に早く帰宅することができたのか。そういう時は、大体いつもメールで連絡が来て、桃子を迎えに行ってくれるのだが今日は連絡が遅かっただけなのかもしれない。

聡子はそう思いながら「そうですか。夫が迎えに来たんですね。分かりました……」

富山先生の「え」という微かに息を飲む声が聞こえた気がしたが、聡子は保育園の門に背を向けて自宅へと歩きだした。

「ただいま」

聡子は自宅のマンションの部屋に戻り、靴を脱いだらそのまま真っ直ぐリビングに向かった。

小学生の長男、佑都と、保育園児の桃子は並んでテレビを見ていた。こないだ金曜シネマ劇場で放映したばかりのSF映画の録画だ。夫の姿は無い。

「あれ? パパは」

反応がないので、聡子はもう一度言った。ねえ、パパはトイレ? 桃ちゃん、今日パパが迎えに来てくれたんでしょう? 桃子は、何が? という顔をしている。だから、保育園よ。パパ早く帰れたんだねぇ。

桃子はじーっと、真顔で聡子を見つめていた。佑都がテレビに向けていた首をクルリとこちら側に向けて口を開いた。

「ママ、何言ってるの?」

佑都が言うには、聡子自身がさっき桃子と一緒に帰ってきたとのことだった。そんなわけがないことは分かりきってる。違う。聡子に似てる別の女性が代わりに送迎して帰宅したとしても、子供たちが母親である聡子を見違えることは絶対にあり得ない。首を捻りながら洗面台で手洗いをし、着替えをしようと部屋に入ろうとしたところだった。

妙な違和感が、聡子を包んだ。何の違和感かすぐには分からなかったが、その違和感は聡子の身体から聡子自身に向けて暗雲のように沸き上がってきたものだった。

「この部屋に何しに来たんだっけ」

部屋のドアを開けて聡子は呟いた。着替えをしようと部屋を訪れた。しかし、聡子の服は先ほどの帰宅時の服から部屋着に変わっていたのだった。

「そうだ、着替えをしようとこの部屋に来て。やだな、もう着替えてたわ」

聡子は独り言を言いながら部屋を出る。

夕飯づくりのためにキッチン台に立ったが、そこには今朝から作る予定でいた夏野菜のスパゲッティーに使うナスとズッキーニが丸切りにされてお皿の上に載っていた。フライパンの真ん中には、にんにくのみじん切りの固まりがポコンと載せてあった。

「ああ、もうこんなところまですすんでたんだっけ」

フライパンにナスとズッキーニを並べて弱火で焼き始める。その間に、佑都のランドセルから学校から貰ったプリント類を引っ張り出そうと手を入れた。こういうことも自分がやるのでなく、佑都自身で全てこちらに提出してほしいのにと思いながら。今日は無いようだ。珍しい。

「今日は学校からのプリントない?」

「うーん? 無いのかなぁ。あったと思うけど……」

なんとも頼りない返事が返ってくる。

「覚えてないの? もうしっかりしてよ」

と言いながらテーブルを見ると、採点済みの小テストとプリントが角を揃えて綺麗に分けられて置かれていた。

なんだ、出してくれたんじゃん。なんか今日は少し調子が狂うな。でもいつもよりなんだか物事がさっさと終わってる気がする。

その後、夕飯を食べ終わった頃、夫の伸介が帰ってきた。その後、聡子が佑都の勉強に付き添い、伸介が子供たちをお風呂に入れそのまま子供たちと一緒に就寝した。

時計の針は22:00だった。今日はずっと読みたくても読めなかった本を一時間ほど読んで寝ることにしよう。

途中うとうとしかけたが、23:30になる頃聡子は寝室に向かった。

(2へ続く)






















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