【小説】聡子とサトコ-2

翌朝もいつもの朝が始まった。ぼんやりした頭の中朝食づくり、化粧、娘の桃子の髪の毛を結い、保育園への送迎のため家を出る。

園を出たら、そのまま駅まで直行する。15分ほどの道のりだ。この行き帰り15分が改めて長い。例えば商店街の中を歩くとかなら、お店の店頭や商品を横目に季節ならではの感覚を楽しみながら歩けるのかもしれないが、左右に高層マンションしか立ち並んでない道をひたすら歩くのは何の面白味もなく、周りも勤め人と、小学生らの通学、ひたすら退屈なのである。

いつもの朝である。

会社に着いて業務して、退社は17:45。これもいつも通り。昨日、桃子を迎えに行ったのは一体誰だったのか、そんなことは聡子の頭の中からはとうに消えていた。昨日、帰宅した直後からその事はもう忘れていたのだ。

保育園のチャイムを昨日と同じように押し、インターホンごしに北村です、と伝えた。

「……」

相手の怪訝な反応は、理由がないと少し不愉快に似た気持ちになる。聡子は、急に昨日の迎えの時のことを思い出した。昨日もこんな感じだった。

「……桃子ちゃんは先ほど帰りましたよね?」

聡子はゆっくり自宅へと歩きながら考えていた。昨日の送迎時の記憶も、自宅に戻ってからの記憶もある。でもなんか腑に落ちない。そうだ。昨日は夫が迎えに行ったわけではなかったのに、帰宅したら桃子は家に居たのだ。なのに、そのことを考えるのを止めて夜を過ごした。なぜ考えるのを止めたのか。これから帰宅して昨日と同じように夫が迎えに行ったことではないことが分かったらどうする?

聡子はマンションのドアを開けた。夫の靴は無かった。

聡子は自分に対して不思議だと思ったのは、聡子自身が記憶喪失や認知症の類いではない、と自分で信じられることだった。

鍋には出来上がったスープが湯気をあげていたし、聡子は試しに桃子の予防接種の予約状況をスマホで確認した。5月10日の土曜日15:00から。

既に予約は済んでいた。

聡子は退社後、保育園の送迎には行かないことにした。毎日夜に翌日の夕食の下ごしらえも止めた。

「サトコ」が、自分と夫が不在の時に、済ませてほしい家事と育児をしてくれる-。だんだん分かってきたのは、サトコの姿は聡子を見ることはない、ということだった。仕事で帰宅すると、サトコと瞬時に “同化"し、聡子一人になるのだ。

サトコも自分であることに変わりないのに、自分とサトコ、って言うのも変だ-。今度の休みに長男の学校の運動会がある。聡子は運動会は一番気の進まない、行きたくない学校行事だった。拘束時間は長いし、暑いし、何より仲良くもない他の母親と表面上だけの薄っぺらい会話と愛想笑いするのはごめんだ。聡子はこれからの生活を想うと、思わず心が軽くなりほくそ笑んだ。

運動会当日は、朝起きたら佑都用におにぎりのお弁当と、サトコが食べるのか、もう1つのお弁当箱が赤い手拭いに包まれてキッチン台に置かれていた。夫は日が重なってしまった桃子との親子遠足に既に出発していた。

夫にとって私はどう見えているんだろう、と聡子は思った。お弁当を作るサトコをきっと夫は見ていただろう。ではその間、聡子である自分はどこなのだろう。聡子は物事をじっくり考えるクセがあったが、なぜか、この事に関してはいつのまにか深く考えるのを止めてしまうのだった。

聡子は土曜日の朝、ゆったりとコーヒーを飲み、家の掃除を済ませ、お昼になるまでゆっくりと本を読んだ。その後、前々から考えていた現在の職場での給料アップへのチャレンジの為、勉強し始めた。一人きりの家でこんなにも自分の為に時間を使ったのは10年ぶりくらいだった。

今頃、炎天下の中小学校の校庭の隅で巻き上がる砂ぼこりの中、長男の佑都のビデオ撮影をしている麦わら帽子をかぶったサトコが思い浮かんだが、すぐに消えた。

午後の15:00過ぎ頃、夫と娘の桃子が帰ってきた。続けて、長男の佑都が帰ってきた。体操着のまま、心なしか頬は日焼けで赤くなっている。

「おかえり! 今日はどうだった?」

話しかけてたから、しまった、質問を間違えたと思った。

「ママ見てたでしょ? 僕は徒競走で1位だったじゃん」

いつの間にか、テーブルの前にビデオカメラが置いてあった。再生すると、走ってきた佑都がゴール前でテープを切った。帽子が脱げる。

また帽子脱げたんだ、一年生の初めての運動会の徒競走のときもそうだったな-。動画を見つめる聡子の口許は思わず微笑んでいた。

その夜、聡子は夢の中でサトコに初めて会った。サトコは佑都の隣で、桃子は夫に抱き上げられて甘えて笑っていた。サトコは聡子と同じだった。背格好も髪の長さも、ホクロの位置も。サトコは斜め後ろに気配を感じたのか、クルリと振り返って聡子を見た。

感情のない表情で聡子を見たあと、口の端を上げてニヤッと笑った。

聡子は寝苦しさで目が覚めた。時計は4:30目が覚めた後も、夢の中の歪んだ三日月のようなサトコの口許が脳裏に焼き付いていた。

佑都と桃子はぐっすりと寝ていた。寝る前は大人と同じ向きに寝るが、途中で必ず体が時計の短い針のように横になっているか、頭と足の位置が完全に逆さになっている。健康である証だ。

そういえば、佑都と桃子とはしばらくかかわり合っていないな、と聡子は思った。初めて自分と分裂したした"サトコ"の出現を自覚してからもうすぐ三週間経つ。考えてみれば "サトコ"の行動しは聡子は自覚も感覚もないのだ。双子やソウルメイト、ツインソウル、のように互いの行動が不思議と分かりあえることは無い。姿形のそっくりな他人のようである。

聡子は久しぶりに今度の休みは二人を連れて公園に遊びに行こうと考えた。仕事も勉強も一段落着いたので、ようやく子供たちとしっかり向き合う余裕ができる。

そう考えながら聡子はそのまま横になり目を瞑った。

土曜日、洗濯、昼御飯を済ませたあと佑都、桃子を連れて公園に行くことにした。先週の聡子は、読書と勉強を始めようとしていた時間だった。グローブと、ゴムでできた野球ボール、縄跳びを持ったところで、桃子から声をかけられた。

「ママ、フラフープ持ってくれた」

フラフープ……、うちには無いはずだ。聡子がぼんやり考えていたとき意識が、-その時間は一秒くらいだっただろうか-、途切れた。

次の瞬間、玄関には佑都と桃子の姿は無かった。玄関のドアの外に出て、五階の手すりから下を覗いた。

自分のような後ろ姿の女がフラフープを持って、佑都と桃子と一緒にマンションの前の道を歩いていた。そして、すぐに左に折れて見えなくなった。

サトコだ。

聡子はなんとなく湧いてくる胸騒ぎを、気がつかないふりをして押し込んだ。見ようと思って画面に写したDVDの画像もしばらく、目に映るのみで頭に入ってこなかった。

聡子はそんな気持ちを切り替えるように、45リットル袋にまとめておいたゴミ袋をつかんで部屋を出た。

ゴミ袋を置いてマンションのゴミ収集場のドアを開けたところで、佑都の同級生のカイという子の母親と会った。保育園の時から一緒で、三年生でまた同じクラスになった。

「佑都くんママ、こんにちは。」

「…あ!…こんにちは。」

「また来週授業参観だねぇ。今回は行く?」

……そうか、授業参観か。思えば二年の前期の参観以来、教室での佑都を見ていない。

久しぶりに見に行ってみよう、と聡子は思った。


その後、公園帰りの自動販売機で買ったであろうジュースを飲んでいる佑都と桃子を見つめながら、昼間に感じた胸騒ぎを思い出したが、胸の奥に押し込めた。

(3へ続く)














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