『倚門之望』 ② 親の心を探る
昨年、亡くなった母のことを思い起こし、このnoteに記したいと思います。
私ごとのひとり言です。
母さんとバリカン
中学生の頃の話。
学校帰りにクラスの友だちの家でよく遊んだ。その友だちは母子家庭で、お母さんは夜の仕事のため、夕方から家には誰もいない。だから悪友の溜まり場となった。
その友だちの家では、「週間少年ジャンプ」を回し読みしたり、ケンカが強くなるように、空手のまねごとをして鍛えあったりもした。
また「オレたちひょうきん族」などのお笑い番組の話題や学校でのことなど、他愛もない話をして、貴重な青春の時を刻んでいった。
ある日、いつものように、その家に友だち数人で遊びに行った。そして、外が薄暗くなってきて、お腹が空いてきた頃である。友だちが何かないかと冷蔵庫を覗くと、瓶ビールが目に入った。それを見て、あろうことか「飲んでみるか」と言い出したのである。
やめとけという友だちもいたが、私は興味本位で「飲もう!飲もう!」と言って、中にあった瓶ビールを取り出し、みんなで飲んだのである。
大人がいつも飲むビールは、子どもの目から見ると、とても美味しそうな飲み物に映った。
実際に飲んでみると、苦いだけで美味しいといえる代物ではなかった。
子どもの時に苦くマズいと思ったビールを、いつから美味しく味わうようになったのだろう。
いつ閾を跨いだのかも分からないまま、子どもから大人になってしまった。
さて、その苦いビールを少し罪悪感を感じながら飲み干した後、暫くすると体が火照り出し、顔が真っ赤になって、気分が良くなってきた。
これが『酔う』ということなのかと思いながら、その後、睡魔に見舞われ、その場に寝てしまった。
目を覚まし、ここはどこ?と寝ぼけながら時計を見ると午前0時。ヤバい!と飛び起きた。私はあまり飲んではいなかったので、もう酔いは覚めていた。
部屋を見渡すとその家の友だちと、もう一人の友だちが鼾をかいて、気持ち良さそうに寝ていた。
一瞬起こすのを躊躇ったが、とりあえず僕と一緒に寝落ちし一刻も早く家に帰らなければいけない、もう一人を起こして、寝ているその家の友だちには、心の中で別れを告げ、その場を足早に立ち去った。
家まで歩いて20分の道のりを、薄暗い街頭の灯りを頼りに、最短距離の狭い路地を通って、家までひたすら爆走した。
たぶん記録を取っていれば、100メートル走の生涯ベストタイムを叩き出していたであろう。
そして走りながら、家族はもう寝ているだろうと思った。
家に近づくと、辺りは静まり返っている。どの家も真っ暗である。
しかし、こんな時間でも一軒だけ玄関の灯りが煌々と点いている家がある。
わが家である。
「誰かまだ起きているのだろうか?」と不安に思いながら、私は気配を消して、静かに優しくそっと、玄関を開けた。
すると目の前には、母が恐ろしい形相で仁王立ちしている。
髪の毛を逆立て、見るからに怒っているのだ。
「こんな時間までどこに行ってたの!」と、怒号が響き渡り、耳鳴りがするほどだった。
僕は、夜中にそんなに大きな声で怒鳴ったら、近所迷惑になると、冷静に思ったりもしたのだが、、。
そのあとは、早く寝たいのにと思いながら、グダグダと説教する母の言葉を右から左に聞き流した。
そして「友だちの家で遊んでいて寝てしまった」と言い訳してからは、酒を飲んできたことを母にバレないよう終始無言のまま、平身低頭、怒りが治まるのを、ただじっと待つしかなかった。
しかし、父と祖父が寝ていてくれたのが、せめてもの救いでもあった。
翌日の日曜日。
当時、僕の通う中学校は、男子はみんな坊主頭である。
人差し指と中指で髪を挟んで、そこから髪がはみ出したら、坊主にしないといけないという、くだらない校則が厳然と存在していた。
僕はいつも髪が伸びると、母にバリカンで坊主にしてもらっていた。その日は、いつもと少し様子が違ったのである。
いつもは6ミリのバリカンの刃を使うのだが、その時は、「今日はこの刃でする!」と母はいつもよりも短い3ミリの刃をバリカンにセットした。
母は「まったくもう!」と呟きながら、僕の頭にグイグイと力強く、その3ミリのバリカンの刃を押し当て、髪を刈っていくのだ。血は出なかったが、それがとても痛いのである。
母は、わざとそのようにやっていることは明白だった。
しかし、僕は何も言わず、というよりぼくには何かを言う権利など、何処にもないことをよく理解していた。
僕はただその痛みに耐え、無抵抗のまま、昨晩のことを、また反省するしかなかったのだ。
散髪が終わった後、鏡に映る自分を見た。
バリカンの強い摩擦による衝撃で、赤くなったその坊主頭が、まるで茹で上がった蛸のようで少し笑えた。
そして、もう二度とあのようなことはしないと心に誓った。
次の日学校に行くと、僕と一緒に寝落ちし、爆走して家に帰ったその友だちも、僕と同じ頭をしていた。
その頭を見て何も語らずとも、あのあと、彼がどういう状況に陥ったのかは、容易に想像が出来た。
そして僕たちは、戦地から無事に帰還して、喜び合う戦友のような気持ちを共感した。
生きているということは素晴らしい。
母の怒りも愛情の一部と思わなくてはいけない。
玉子焼き
小学校の道徳授業の題材に『ブラッドレーの請求書』(お母さんの請求書)という話がある。
僕はこの話を、20年近く前に、ある人から聞いて、とても感動したのを覚えている。
またこの話を聞いて、親の愛情というのは、見返りを求めない、尽くし切る愛なのだと思った。
母の愛情といえば、母の作る料理が思い浮かぶ。
昔は家庭の味は、それぞれの家で違った。
しかし今は、スマホを見て検索し、レシピ通りに料理すれば、大体似たような味になる。また失敗することもあまりない。
僕も今は、その恩恵を受けている。
妻が仕事で帰りが遅い時は、僕が子ども達の夕飯を作り、子どものお弁当を作る時もある。
お弁当のおかずは当然、冷凍食品ばかりだ。
せめて一品ぐらいは、手作りのおがずを作ろうと思い、スマホをガス台の横に置き、油がつくのを気にしながら、動画を見て玉子焼きを焼くのである。
今は随分と上達したと自画自賛している。
冷凍食品などあまりない時代に、この大変なお弁当作りを、母は中学生の時から毎朝作ってくれていたのだと思うと、少し胸が詰まった。
母親は大変である。そこには子どもには気がつかない母の愛がある。
妻の作る玉子焼きも美味しいのだが、母の味には敵わない。
そして、僕が作る玉子焼きも、妻の味には遠く及ばない。
慈母との最期の面会
コロナ禍で家族でも面会ができない日が続く中、母の容体が悪化してきた。
入所する施設の寛大な対応で、特別にベランダ越しからの面会を許された。
母に会うのは半年ぶりであった。
母は8年前に脳内出血で倒れ、半身不随となり、晩年は寝たきりで、口もきけないので、意識があるのか、ないのかも分からないような状態だった。
半年ぶりに会った母は痩せ細り、ベッドに横たわったまま、口は半開きで瞬きひとつもせず、無表情のままこちらをじっと見ている。
あの周りを照らすような明るい性格だった、母の面影は微塵もない。あまりの変わりように思わず口に手をあて、絶句した。
看護師さんが、母に「息子さん達が来てくれたよ。良かったね」と声をかけたが、反応はない。
僕は「今まで来れなくてごめんね」とひと声かけてからは、どんな言葉をかけていいのか、よく分からなかった。
時間は10分と限られていた。なにを話したのかあまり覚えていないが、一方通行の他愛もない話をしたのだろう。
何も語らない母をみんなが見つめ、少し沈黙が続いた。
僕は胸から込み上げてくる感情を必死に抑えて、終始平静を装っていた。
そして、これが生きて母と会う最期であることを悟った。
ベランダ越しからの別れ際、本当は「今までありがとう」と母に言いたかった。
しかし、今のこの状況には相応しくない言葉であると思い、「また来るね」と言って母に最期の別れを告げた。
その3日後に母は82歳で人生の幕を下ろした。
兄から訃報の連絡をもらったその夜。
母は風前の灯のなか、僕が来るのをずっと待っていたのではないかと思った。
そう思うと、今まで抑えていた感情が溢れ出し、嗚咽した。
幸いにも家族はもう寝ていたので、気づかれることはなかった。
泣いたのは、その一度きりだった。
あの日の面会のあと、車中で妻が「お義母さん。ずっとお父さんしか見ていなかったね」と言った。
僕は頷いただけで、言葉は返さなかった。
あの時の無表情のまま、瞬きもせずに、じっと一点を見つめ、何かを言いたそうであった母の顔は、今でも僕の脳裏に焼きついている。
自分のことよりも家族のことを一番大切に思っていたひとだったから、迷惑ばかりをかけてきた息子にきっと
「家族を大事にするんだよ!」と言いたかったのだろう。
今もきっと、天国から見守ってくれていると思う。
汝の家族を愛せよ
『倚門之望』の王孫賈の母や、ブラッドレーのお母さんのような愛情を、世界中の人々がもてれば、この世から戦争や紛争、痛ましい事件などは無くなるのだろう。
しかし、今は平和な世界には、ほど遠い現実がある。
だから、まずは身近な家族への思い遣りや、たすけあいが大切だ。
なぜなら夫婦・家族が一番小さな社会の単位なのだから。
その家族の平和が、地域となり、そして国となり、やがては世界の平和に繋がっていけばと思う。
『倚門之望』
母の愛情は深淵の海のように、どこまでも深い。
誰かのことを想えるひとでありたい
いつかそのような人ばかりで、世界が満たされるように。
最後まで私の独り言におつき合い下さり、有難うございました🙇
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