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傾聴から、個展のタイトルの話

今日は話を聞いた、痛切な

絵描きは(絵かきじゃない人がそうであるように)意外と色んな目に遭うようなのだった 神経病みはどうも生まれたときからだと気づくのはだいたい20歳過ぎてから30くらいまでだ

色んなものに翻弄されながら絵描きをやったり絵描きを休んだり死にたくなったり幸せになったりしながら


軸になってしまった、絵筆と手をくくりつけた部品を動かして、這いずりながらちょっとずつ進むっていう生態はみんなそうみたいだ

泣きながら、吾輩の絵のことを、絵ってそう(内側からにじみ出る、と表現してくれた)あるべきだと言ってくれたガールは銀座とかいうおばけに「売れる絵マシン」みたいにされて苦しいっていうのを聞かせてくれた

そんなマシンになれるなんてそもそもすごいんだけど、その銀座とかいうおばけは本当に悪いやつで、絵描きの若さや瑞々しさを自分のところに囲い込んでどこにも出さないっていうやり方の他にはなんにもしたくないみたいだった

そこから逃げて、助かっていくのをそばで見ていないといけないなと思った



誰かのはなしをきく、はなしをするときに自分のやっていることが一体何なのか今ひとつはっきり像を結ばず、でも確かに形があるような気がして気になり続けている

「気持ちのでこぼこになじむ」と表現してくれたともだちがいて、ある程度言い当ててくれている値だと感じたんで嬉しくてありがたかった


なんでそういうふうにやってるのかは分からない

体がそう動いてる感じは確かにあるのだが


それが絵になるときもあって不思議で、嬉しい
いつでも体の動くようにやれるといいと思う
そして、わたしはそれが庭みたいなものだと感じている


秋田でやる個展のタイトルを「ぼくの庭においでよ」にしたいのにはそういう理由がある


わたしの不思議な内在の庭は、他の誰かの庭に接触すると光ったり音がなったように存在感が増す

そのうち物理的な空間の広がりとしての庭があることにも気づいて、その庭に実際に呼ばれることもある(たいそう感動する)


いろんな偶然とか、思いの強さとか縁の引力みたいなものが働いて、今回そこはどうも秋田市内某所(城下の川反にあるルーム巣というおもしろスナック横の粘菌事務所が暫定の予定地)なのだった

秋田、何度か夢に見て変な場所だったのだけど、下見に行ってみたらなんか夢の手触りと少し似ていた(やっぱりちょっと変な場所だった)

今は新しく庭ができることがうれしい

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