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映画「法廷遊戯」感想文 ―正義と信奉

はじめに

これは、考察ではありません。1回映画館で観ただけの、原作未読の、いちキンプリファンの感想文です。

上映後、気付いたら清掃員の方が傍にいた。

公開翌週のド平日、しかも朝イチの回に観に行った。
スクリーンのちょうど真ん中の席。正面から「くらって」しまった。
少しずつ狂う歯車…なんてもんじゃない。初めからすべてどこか壊れていた。壊れたものを積み上げて奇跡的に保たれていた塔を破壊し尽くすような、そんなストーリーに感じられて、観終わった後はしばらく立ち上がれなかったし、朝食替わりのポップコーンは半分も食べられなかった。
のろのろと帰り支度を始めたころには、私以外の観客は居らず、清掃員の方がすぐ前の列まで来ていた。
早く出なければ、と焦ってスマホを床に落下させ、軽く傷をつけた。

くらい過ぎて、数日は思い返すのもなかなかにしんどかったが、何人かの方々の感想を読み、少しずつ衝撃も落ち着いてきたので、自分なりの感想を記しておこうと思う。

正義と信仰(信奉)

この作品のテーマは「それぞれの正義」「正義とは何か」といったところであろうと思う。が、私はそこに、プラスαで「信仰」「信奉」というものの存在を感じた。
美鈴は清義を、馨は父親を信奉していた。信奉の対象を護る、ということが前提での正義だった。
一方で、清義が美鈴を信奉していたかというと、そうではないと思う。どちらかというと、庇護欲や共依存に近い感情である。そして、施設長への傷害事件にて警察官に諭されたように、淡々と法曹に邁進していた。「正義」というものの在り方が最もシンプルなのは清義だったのではないか。
清義の正義がシンプルなのは、美鈴を神格化していないことに加え、過去の罪の重さの全貌を知らなかったからでもあろう。


人間を信奉することの危うさ

信奉の対象となる人間 ―美鈴にとっての清義 は絶えず変化する。それを強く信奉することは、裏切られ感と背中合わせになる。
美鈴は、最終的な清義の決断を「裏切り」と明言してはいないが、完全なる目論見違いではあっただろう。人生を賭した計画、しかも清義を救うための計画が、信奉の対象の想定外の行動により破綻した。信奉の対象が、常に同じ行動原則のもと意思決定する、というある種の盲信に陥っていたのではないか。
(余談だが、私の如きアイドルオタクも、アイドルの信奉はほどほどにしないとね…と自戒した)

一方で、馨は、信奉の対象である父がすでに生身の人間ではなくなっている。これもまた、実体無きがゆえに神格化と使命感が増幅されたのではないだろうか。命を賭すことになる可能性も感じながら、少なくとも人生は完全に賭していた。

一般的な、というかメジャーな宗教は、神や仏といった人ならざる者が信奉の対象として存在し、また教義という不変の行動原則が共通認識化されている。この構造はとても理にかなったものなのだろう、と思った。


天秤となる者はだれか

物語は、”三者それぞれの正義の対立構造”を成してはいるが、これは”三すくみ”(対等な三者の牽制)という力関係ではないと思う。具体的には、清義は天秤である。その清義を中心として、馨と美鈴が対立している。清義という天秤がどちらに傾くのか、という話であると感じた。
ポスタービジュアルでは馨が天秤を持っており、無辜ゲームの主催者でもあるので、普通に考えれば審判者=天秤は馨なのだろう。しかし、最終的に馨と美鈴どちらの目論見に乗るか、という選択を迫られたのは清義だ。その清義こそが、天秤だと感じた。


清義と馨の友情

馨が、墓に仕掛けた「保険」。それは、清義の良心を揺さぶるものであり、馨が清義に託した一縷の望みだったのだと思う。たぶん散々言われているだろうが、りんどうの花言葉は「正義感」。清義に、己の正義感を携えてこの事実と向き合うことができるか、と問うたのだろう。
2人そして司法への贖罪を求めるための計画ではあったものの、最終的には清義の正義がどちらに傾くか、が鍵だった。それを託したのはやはり清義の行動、ひいては清義という人間への信頼があったのではないだろうか。
計画を成し遂げるために清義と友人関係となった馨だったが、自分の計画の最後の一手を託せる人物、と見なしたのは、やはりどこかに清義への友情を感じていた、と思いたい。


清義と美鈴に掛けられた大人からの言葉

清義が施設長への傷害事件を起こした際、(うろ覚えだが)担当刑事は「暴力で解決しようとするな。知識を味方に付けろ」的なことを言っていたと思う、多分。言葉尻あやふやでごめんけど、趣旨はこんなよね。
これが、清義を法曹の道に導いた。清義の人生を導いた、大人からの初めての言葉かけだっただろう。(とはいえ痴漢冤罪に手を染めますけど…)

一方、美鈴は、同じく警察官であった馨の父に「君はまだやり直せる」と言葉をかけられた。しかしこれは全く響かず、むしろ美鈴を激昂させた。

罪を咎め、正しい道へ導こうとする、同じような立場の大人の言葉に対する、2人の真逆の反応。美鈴は性的搾取という直接的な被害を受けていたことも要因の一つではあったのだが、少なくともこの中~高校生時点で2人は同じ道で寄り添いながらも、見えている世界はズレていた。このズレが最後に明かされるという哀しさよ。


美鈴のこれから

美鈴は、清義という絶対的な信奉の対象を、物理的にも精神的にも失った。これは、清義に執行猶予が付くとか、刑期を終えたら会えるとか、もうそういうレベルではない。美鈴が今のままでは、寄り添ってはならないのだ。

いわゆる”普通”の子供が、親に寄り添い寄りかかり育っていくところ、美鈴はその対象がなかった。だから、清義をよすがとするしかなかった。清義は信奉の対象であると同時に、保護者でもあったのだ。
子供が大人になる過程で親離れをするが、今作での清義と美鈴の別離は、「壮絶な親離れ」のようなものではないだろうか。青年期の発達課題のベリーベリーハードモードだ。
美鈴よ、これは乗り越えてくれと言うほかない。これを乗り越えた先にしか、いち人間同士の、清義と美鈴の未来はない。


主題歌「愛し生きること」との関係

鑑賞後、主題歌が流れると歌詞がストーリーのまんますぎて改めて驚いた。
そして、100回ぐらいドヤらせてほしい。
私が、「愛し生きること」MV公開時、そして映画主題歌とまだ発表されていなかったときに、原作未読で書いた詞の考察

”詞におけるユートピア ―2人だけの世界”
”「ある2人の人間関係」とは、ユートピアの最小単位だと思っている。”
”「愛し生きること」の2人は、おそらくこういった恋人関係ではない。”

”2人の世界の中、綺麗な嘘で君を抱きしめる。
というか、僕の綺麗な嘘(世界)が君を抱きしめる。
これは、ユートピアですね。架空(嘘)の理想郷ですね。”

”落ちサビ「それぞれの場所で」でユートピアからの離脱が示唆されたわけだが、その後の主体は「君と描いたストーリー」だけを抱きしめ、信じる。
言い換える。
甘やかな世界から離脱したとしても、通じ合う想いがそこにあったことは真実である。
その真実を糧に進む。
そして、それこそが彼なりの「生きて行くこと」。”

どうよ。(ドヤ
ドヤが止まらん。誰かもっと褒めてくれ。ドヤドヤドヤドヤ。

「まんますぎて驚いた」と書いたが、仮に「愛し生きること」のMVが、一般的なMVのような、ダンスシーンとイメージショットを組み合わせたようなつくりであれば、「あ~法廷遊戯にぴったりだね」で終わってしまったかもしれないほど、マジでまんまだ。
しかし、あの壮大な、しかもYOUTUBEでフル公開という1本の短編映画のようなMVにしたことで、この曲がどんな物語の主題歌にもなりうること、もっと言えばどんな人間の人生にも寄り添える歌であることが示されたのだと思う。
チームキンプリの名采配…そして潤沢な予算に大感謝祭。


すみません、最後スーパードヤドヤタイムに入ってしまいました。
見落としてるシーンや勘違いしているシーンもあるかと思いますが、私の初見での感想はこの通りです。
Xでも書きましたが、役者陣の名演は素晴らしかったです。
三者とも、二面性を表現しなければならない役どころかつ、内心ではすべてを明かしてはいないので、抑えと表出と爆発と、この匙加減めちゃくちゃ難しいんだろうなと…。
北村匠海さんの迷い無きカリスマ性。ひとり教祖といった佇まい。
杉咲花さんの隠花植物のような沈黙と、最後の狂ったような咲き方。
そして永瀬廉先生の、本来の華を抑え、また清潔な陰の魅力を増幅させつつ、にじませる感情。
推しという感情抜きで、見ごたえある名作を観ることができて、とても良い体験ができたと思いました。


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