「My Love Song」聴くためだけに海に行ってきた
碇ゲンドウならブチ切れてるレベルで初号機初搭乗状態
どうも。
相変わらず、「シンジ君初搭乗時のエヴァ初号機」状態の者です。
端的に言うと、やっと歩いてますみたいな、隙あらば座り込んでしまいたいみたいな、そんな状態が継続しております。
まぁね、不定期にこういうの繰り返すパターンのアレなんで、いつか終わるだろぐらいでおりますが、碇ゲンドウだったらずーーーーっとシンクロ率カス過ぎてブチ切れでしょうね。よかったー私がシンジ君じゃなくて!
そんな訳で今日も子供を保育園に送り届けたら、あとは休養休養です。
が、たまたま今朝保育園までの車中でかかった「My Love Song」by King & Prince。
これが妙に刺さりまして。当社比120%ぐらい。微妙。
My Love Songについては、以前も記事を書いていましたが、「『愛おしさ』という概念のちょうどいいあるある」「れんかいのスポークスパーソンとしての能力高すぎ」というハスった視点とか、果ては「振付が生命の繰り返しを思わせる」とかいう完全妄想で〆てしまい、あれは良くなかったなーと心残りというか、後ろめたさはありました。
要は、曲として好きなのにきちんと感性に届いてないという、わたくしのお馴染みの状態のままだったわけです。
それが、今朝は「あれ?いま心に直で入ってきてない?」「感性で受け取れちゃうんじゃない?」という兆しを感じました。今ならいけるんじゃない?と。
そして決意した。
「そうだ、海行こう」
「海眺めながらMy Love Song聴いてみよう」と。
あ、今ダッセって思ったっしょ(笑)
でも俺バカだからさ。しょんねぇの。まじ生きんのヘタって話(笑)
ついサウンドキャッチャーKEITAに逃げてしまったが、「仕事行かずに逆方面の海に車走らす」、手垢つきすぎてまじハッピ~太郎が売ってた布で拭きたいレベルの行動。
でもうち結構海から近いし、前に初号機状態になってたときも、よく海でボーっとしてたし、行きたいなって最近思ってたんですよ。
しかも曇天。
曇天の海っていいよね。これが観光で来てたら、「曇りかぁ残念だね」になるけど、地元民でいつでも海に来れるから「曇りの海もまた良い」という余裕の構えになれるし、実際雲と不透明度高い海の共演は、なかなか良いものです。
海、思てたんと違う
というわけで、早速海に向けて出発。途中コンビニで甘味とあったかいほうじ茶を調達し車内で朝食をとる。あったかいって大事だね。初号機状態が幾分緩和されました。
海に到着し、おーこれこれ…となりかけて、「あっ…」てなった。
やだ…海荒れすぎ………
ねぇこれどう考えてもMy Love Songな海じゃないよね…。東映じゃん。
でも、これも何だか刺さった。この、自然が人工物を超えてしまう感じ。「どうにもならないこと」ってこんなにも世界にあふれてるんだよなーと。私の初号機状態もまぁ、人間という生物の脳という、自然物の一部に起きてる現象だから、どうしようもないんだよなって。
ここでフラットな気持ちになれたのは良かったです。
そして、この堤防沿いより大分波も穏やかな砂浜近くのベンチに腰掛ける。それがタイトルの写真です。
満を持して、My Love Song再生だ。なんかドキドキしてきた。「泣きに行こう」としちゃったらやだなぁとか思いつつ。
My Love Song ~夫ver.~
歌い出しの永廉先生の、少し掠れるような、ほんの少しだけ絞り出すような歌い方めちゃくちゃいいよなぁ…とメタになりかけて、焦る。違う、今日はそういう聴き方したいんじゃないんだよ。
Aメロ始まった時点で、何となく夫を重ねていた。とは言え、プランターのくだりや戸棚に並ぶフェイバリットのくだりが当てはまるタイプではあんまりないので、「前回『ちょうどいいあるある』って言ってた部分だなぁ」。いい加減にしろ、心で聴け。
ところが、いきなり来た。
WWT(私と若林正恭と髙橋海人と)で書いた通り、私と夫の知り合ってからの期間はだいぶ長い。もう20年ちょっと経つ。その間に知人→友人→親友→恋人→夫婦、とグラデーションしてきた。
まさに「いつしか馴染んでた」し、「記憶に挟むしおり そのどこにも君がいた」。
ここで急に、喉がギューッとなってきた。堪えてる時の感覚。いやいやこれって「ぎゅっと胸を掴むような愛しさ」じゃない?もう結構ギリギリだった。
「愛してる」という言葉、日常語ではないと思うんです。こと夫婦に関しては。
そりゃぁ毎日「愛してる」って伝えあう夫婦もいるでしょうけど、少なくとも私たち夫婦に関しては、「好き」は日常語で、「愛してる」は非日常語。
「愛してる」と伝えた時、日常の雰囲気が非日常に変わる。急にそんなことしていいかな?非日常にしてもいいかな?
そんな迷いというか問いかけを、「愛してるって言ってもいいですか」に感じて、もう感情移入で完全に涙こぼれました。
「その笑顔を見ていたいよ」?当り前じゃないですか、この上なく大事な人なんだから。
夫と話し込むのは楽しいし、彼も口下手なのに私の前ではすごく饒舌に、好きなものについて延々語ってくる。そういう日常が夫の中に刻まれているといいなぁと思いながら、もう完全にボロ泣き。
もう2番サビなんか泣き続ける以上のこと起きないから省略します。
喧嘩もしたなぁ…妊娠中に喧嘩してブチ切れて家飛び出して、でかいお腹で謎にウッドデッキ掃除したなぁ…とか思い出したり。もうしゃくり上げて体震えるレベルで泣いてる。
私、夫と結婚して自己肯定感爆上がり(当社比:元が低い)したんです。夫の事すごく尊敬してるし人として信頼してるから、「この人に愛されてる私すごくね?」って。だから、「もう何でもかんでも出来そうで」がね…大共感です。
永廉先生の「もう一回 もう、もう一回」はこんな感情爆発状態で聴かずともグッと胸に迫るものがありますね。
***
いやー、聴き終わって、iPhoneの画面にファンデーション混じりの涙がこぼれすぎて、拭いても曇って、まじハッピ~太郎の布召喚したい。って今気づいたけどあれ、涼しくなるやつだね。冷やしてどうする。
そして思った。愛する家族、夫だけじゃないでしょ?子供たちもでしょ?じゃあもっかい聴こうか。
My Love Song ~子供たちver.~
庭の木の芽見つけては「おかーさんおかーさん」だし、家でもおもちゃ屋でも服屋でも本屋でも、何かを選ぶときは真剣この上なし。「ちょうどいいあるある」が、「完全にFitするあるある」になりもう号泣。
出産したての頃は、全然日常じゃなかった。
突然宇宙人が家にやって来たような気分で、あまりにも小さくて壊れそうな命の前に、怖くて怖くて、「かわいい」の前に、とにかく怖かった。産んだからすぐ母親になれるわけじゃないんだって痛感してた日々。
そのくせ眠ると、子供が誘拐される夢を見て全然眠れないし、乳幼児突然死症候群になったらどうしようと、寝息を何度も確認して。
何か月も何か月もかけて、母親になり家族になり、そして日常になった。
苦いことも甘いこともすべてが思い出だし、心が追い付かなくても、産んだ日から、今日今この瞬間も子供はずっとここにいる。
もう、嗚咽してました。数年ぶりの嗚咽。
後ろからギューッと抱き着いてきたり、大人の口調を真似たり、妹も姉を真似たり、お化粧するしぐさをしてみたり。ここもFitしすぎ。
「君の中に息づくカケラ 僕が居る証なんだ」
仕草や言葉もそうだけど、そもそも私のDNAを引き継いでるし、性格も引き継いでるし。そんなところ似なくてよろし、というところこそ似てたりする。そういうことを感じると、もう既に自分は何かを遺してるんだなって気持ちになるんです。
親が幼子に「愛してる?」って聞くの、何だかずるいような気がしてしまってた。だって、幼児なんて親がすべてじゃないですか。「うん」っていうに決まってるじゃないですか…。でも、ずるくないのかも、それでお互い微笑み合えるなら、聞いたっていいんじゃない?って思いました。
現に子供は「○○ちゃんのこと好き?」って聞いてくるし。それってシンプルに愛情のやり取りと思っていいんじゃないかと、心が少し開放された気分でした。
子供には、いずれこの家を出て、自分が行きたいと思うところで自分なりの居場所を作ってほしいと思ってる。だから、この家の中の家族で過ごす時間も、あと十何年だなって常々思ってる。そんな気持ちと完全に重なりましたね。
一応周りに人がいないことを確認し、遠慮なく嗚咽。田舎でよかった。
前述のとおり、すぐに「母」になれたわけじゃなかった。だからこそ、初めて笑ってくれた時や、私を目で追って探して、目が合ったらニコってしてくれた時、「愛おしいってこういうことなのか!」と感動したなぁ。
「愛してる」って言えるようになって、なんでもかんでもは出来ないけど、できる限りのことは全力でしていきたい。命差し出すぐらいなら余裕。
笑顔なんて当たり前にいつまでも何度でも見ていたいですね。
これね、夫の時も思ったんですけど、出会えた時からめちゃくちゃ「変わっていってる」んですよ、My Love Songは。そしてそれって、私だけじゃないんじゃないかって。
出会った瞬間から愛情MAX運命の出会い、って人、少ないと思う。歌詞の中でも、「いつしか馴染んでた君という日常」「似てきた仕草」とか、愛情のかたちの変化を思わせる。
ここは私なりの解釈なんですが、変わらないのは「My Love Song」であって、「My Love」ではない、と。
例えば「My Love Song」がAメロBメロサビCメロ…と展開するように、愛情のかたちも展開していく。でも、今この瞬間だったり、あるいは僕の命が消える瞬間だったり、その時々に「My Love Song」というものが存在していることは変わらないよ、っていうことなんじゃないかと思います。
私自身もその時々の状態の「My Love Song」を持っているし、愛する者がいるすべての人が、その時々の状態の、その人なりの「My Love Song」を持っている。そのすべてを優しく美しく肯定してくれるような。なんといい歌なのか…。
もうこれを書いている間も、涙こぼれること何度もありました。
曲が心に入ってくるタイミングって分からないもんだなと痛感しました。
そして多分、海に行ってよかった。
海は生命の原初だし、ずっとボーっと見ていられる。無心になれる。
まっさらな心でMy Love Songを聞くことができて、本当に良かった。一生の思い出になると思います。今後、My Love Song聴くたびに泣いてしまいそう。
では改めてお聴きください。
King & Princeで、My Love Song
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