「真夜中乙女戦争」 ―永瀬廉の瞼と、東京への愛憎
はじめに
この記事は映画「真夜中乙女戦争」の感想文ですが、”永瀬廉礼賛パート”と”映画の感想パート(含 自分語り)”の二部構成となっております。
どちらかだけ読むもよし、通して読むもよし、お好きにお読みください。
1.永瀬廉の礼賛
永瀬廉の瞼
先日観に行った「法廷遊戯」が、映画としても永瀬廉の演技も余りにも良かったので、同じ温度感で演じているであろう「真夜中乙女戦争」を鑑賞した。
※参考
「真夜中乙女戦争」での演技もやはり素晴らしかった。
特に魅了されたのが、彼の瞼だ。
喩えるなら、宝石のような眼球にかかったヴェールのようであり、御簾越しにしか話せない姫君のようであり。美しいものを薄く覆い隠す瞼だと思った。
そのヴェールが初めて脱がされた、と感じたのが、かくれんぼ同好会の面接で池田エライザ演じる”先輩”と相対するシーン。ここで初めて、彼はその眼を開き(見開くのではない)、そしてそれを正面から映された。
眼の演技、と言うと、眼球特に黒目の動きやまばたきの仕方、視線の送り方に私は注目してしまう。しかし、伏し目がちでもないのに美しさと意思に靄をかける、こんな瞼の使い方をした眼の演技もあるのかと驚いた。
ちなみに、というほど軽い内容ではないが、おそらく”わたし”と”先輩”が正面から向き合い視線を交わすシーンは、この面接のシーンだけではないかと思う。
レストランでは、2人での食事なのに斜めに座るし、ホテルでのシーンは逆さまに寝転んで向き合っていた。
もっと言うと、面接はアクリル板で仕切られ、電話越しに行われる。直接交わせる感覚は、「視覚」だけであり、そこを正面から映すことにも意図を感じた。
永瀬廉の声
声がいい、というのは「法廷遊戯」のレビューでも多々目にした。今作でもやっぱり良い、と感じた。
良さのポイントは人それぞれだろうが、私は彼の発話するときの息の量、これが好きだ。
呼吸とは、生きていることの証明。呼気が多く含まれた彼の声は、どんなに生気を抑えても、隠せない生を感じることができる。もっとありていに言えば、無表情でありながら表情をにじませることができる、ということだろうか。
この感覚は、彼が歌う時にも感じている。
生と性はかなり近いところにある。彼の歌声に上品なセクシーが滲むのは、こういったことでないかと思っている。個人の感想だが。
2.映画の感想(含 自分語り)
少年ではなく、乙女
原作では、「乙女」という独特な表現の理由は明かされているのだろうか?原作未読の身として、推測に過ぎない「乙女」という表現の意味を考えてみた。
少年は、いずれ青年になる、いわば幼生のような存在だ。力ある青年という存在になる未来。”黒服”のもとに集った常連には、青年的タフネスを手にする未来があるように見えなかった。だから、乙女。
そして、乙女とは、少年と同じく、大人の女性となるまでの過程である。”わたし”および常連は、何者にもなれていない、過程に生きている者たちである。そこも「乙女」と表現した理由なのかな、と思った。
なお、過程にある者ほど、「自分が過程の最中にいる」と気づかない。反抗期の少年少女が、客観的に見るとシンプルな反抗期だが、本人たちはそれと気づかないように。
過程にある者に見えるのは、結末だけだ。”わたし”および常連の見ている結末は、破壊だけだっただろう。
真夜中乙女戦争は、寓話である
寓話…イソップ物語のような、具体的な物語から一般的教訓を示すような構造の話、といった定義であるが、私的に今ここで意味する寓話は、「具体的個人らの整合性の取れた物語でなく、人間の思想や感情を具現化させ増幅させた話」ぐらいに考えている。
よって、この映画について「論理的に整合性が取れていること」や「登場人物の行動の一貫性」は求めていない。
し、登場人物は、人間の中にある感情を具現化したものであると思っている。
東京への愛憎
上で、ある感情の具現化、と書いた。具体的には、黒服は破壊願望であり、先輩は愛情であると思う。その二つを併せ持ち、常に揺れている”わたし”、という構造。
破壊願望と愛情、その対象は、いずれも東京という街そのものだと思う。
”わたし”は大部分において冷めたようにふるまっているが、東京という街にあこがれと希望を抱いていたからこそ失望するわけであり、自分の未来を悟る瞬間が生まれる訳である。つまり、愛情は元はあった、ということ。
その愛情を挫かれた先に生まれたのが、破壊願望。
黒服は破壊願望の象徴であり、人々のルサンチマンの集約である。
先輩はどうか。先輩は、同じ東京の街で、どうにか生きようと人並みの中すり抜けながら歩く存在。東京の一部である。その先輩に惹かれるということは、東京という街への一縷の愛情を残している、ということになる。
好きなものは…
以前、私がXのアイコンにしていた、坂口安吾の、「夜長姫と耳男」の一節である。
「夜長姫と耳男」は、異様な世界観とそれを心に垂らし込むような緩急ある文体、そしてラストのこのフレーズにたまらなく魅了された。
しかし、このフレーズのインパクトや安吾の愛憎観は伝わるものの、こういった形の愛情に接したことがないのでいまいち飲み込めないでいた。
「真夜中乙女戦争」は、この「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならない」を地で行っている、と思った。この言葉を初めて鮮烈に痛感した。
”わたし”は、東京を呪い、殺し(破壊し)、そして戦争(争う)しようとした。黒服というカリスマおよび武器を手にして。
しかしあくまで「好きなもの」であるし、そこには好きだった”先輩”も含まれている。
”わたし”の破壊行為は、始まりは制御できたが、徐々に増幅し終わりは制御不能になり、すべてを焼き尽くしてしまった。”先輩”という肉体的存在はおそらく残るものの、彼女の明日も実質的に破壊した訳で。
【自分語り①】東京のフリーライダーであること
この文章を書いているほうの私は、大学進学から10年間東京で生活した。東京に恋い焦がれていた。
しかし、あるとき「フリーライダー」という言葉を知り、それが自分のことだ、と自覚させられた。フリーライダーとは、ちゃんと定義すれば「公共財などに対価を支払わずタダ乗りする者」みたいなものだが、私にとってのフリーライダーは、「東京という街で整備された利便性の高いシステム、その構築に貢献することなく恩恵にだけあずかる者」という感覚だった。
要は、供給や生産することはできないまま、利益だけをいただいているような状態、それが自分だと思った。
夢や創造性なく、ただ淡々と労働して、誰かの作った複雑な地下鉄網を利用する。この街に何も提供していない、自分はここにいる意味はあるのか?と思った。
そしてさらに数年かけて、「自分はフリーライダーですらない」ということに気づいていった。
それは、片道3時間かけて曇天の河原に行き、レンタカーの返却時間を気にしながら渋滞にハマる時。
それは、プロパー(定価)で買えない通勤用の服が値下げされるのを待つ日々。
それは、不格好にネギが飛び出た重い買い物袋を抱えて、箱のような18㎡の一室に帰る時。
少しずつの積み重ねの中、「フリーライダーが享受する東京の恩恵は、こんなレベルではない」と気づいた。大した金もなく人脈もない自分は、「乗る」ことすらできていないのだと気づいた。そういった思いもあり、また地元に、後の夫となる人がいたこともあり、東京を離れよう、と思ったのだった。
「真夜中乙女戦争」の”わたし”は聡いので、もっと早い段階で、「自分はフリーライダーにすらなれない」という未来に気が付いていたのかな、などと、己を重ねてみたり。
【自分語り②】オノさんの会
東京に住んでいたころ、友人の誘いで異業種交流会のようなものに参加したことがある。小さなカフェバーを貸し切り、笑顔で互いの肩書だけをやり取りする時間を過ごしていたら、唐突に、「オノさん」が一段高い場所に現れた。私は未だに彼について、「オノさん」と呼ばれていること、男性であること、その会の主催者であったことしか知らない。
会の参加者は皆、「オノさん」に心酔していた。「挨拶に行ったほうがいい」と背中を押された。名前を名乗ったかわからない。出身地だけ言った気がする。
数日後何故か、「オノさん」が私と話したがっている、ということで、友人と共に会いに行った。そこにいたのは「オノさん」の奥さんで、しかも「私がオノさんの奥さんに会いたがっている」という話にすり替わっていた。全く記憶に残らない会話をした後解散したが、友人に別れ際、とある本(人生を豊かに生きるための啓発本)を勧められた。
また別の機会。全く別コミュニティの友人から、SNS上で「久しぶりに会おうよ」と連絡があった。カフェで話している限りでは、彼女は仕事に前向きで、社内でも特別な評価を受けているということだった。旧友のイキイキした姿は嬉しく、楽しく聞いていた。
そして、彼女はとある会に頻繁に通っていると言い、私に参加しないかと誘ってきた。
さすがにオノさんの件で懲りていたのでやんわり断った。
別れ際、彼女が勧める、というか貸そうとして来たのは、オノさんの会に誘った友人が勧めたのとまったく同じ本だった。
この2つの出来事には多分何の関連性もないのだが、私は、そこに「東京で生きていきたい若者」の姿を感じた。自分もそうだが、東京を地元としない人々の、漠然とした寄る辺のなさ。何となく、それを感じる出来事だった。こんな小集団が、たぶんそこかしこにある。
黒服を中心としたTEAM常連は紛れもなく、社会にはじかれた寄る辺なき人々の小集団だったのだろう。そしてその人々がまた、”わたし”を集団からはじく。結局そこに在るのは社会の縮図に過ぎないのかな、と思った。
強引なまとめ
東京に住んだ地方出身者の代表みたいな顔で、東京への愛憎を語ってしまった。「大げさすぎ」と言われるのも完全に承知の上です。
ただ、東京という街は憧れも絶望も内包している、と思う。
地元にUターンして、尚更そう思う。
私は、東京のフリーライダーにもなれない現状に気づき「撤退」したが、真夜中乙女戦争の”わたし”が、その未来を悟って「破壊」を選択したことについては、かなり共感できる、と思っている。
現実にあんな大爆発・大崩壊は起こせないだろう。ただ、愛するがゆえに、希望を持っていたがゆえに破壊し尽くしてしまいたい、その想いは理解できる。
誰もが共感する作品ではないだろうし、筋の通ったストーリーではない。さらに私には、劇中の小ネタやメタファーを拾う能力もなかったけれど、ひとつの愛憎の形の答えを提示されたような気がして、かなり好きな作品だった。
書き忘れ
池田エライザもとても良かったです。
彼女は、躍動の人だと思った。そのルックスのせいでもあるだろうが、ただ黙って立っているだけでも、命の躍動、鼓動を感じさせる人。
原作での”先輩”と、おそらくキャラクター性は違うのだろうが、この映画においては絶対に、彼女の躍動感・肉感が必要だったと思う。それこそが黒服や”わたし”の、破壊行動によってしか躍動できない、生の希薄さを引き立てていたと思う。
己の文章が長すぎて引きました。
ちゃんと読めた人居るのだろうか…取り留めなくてすみません。
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