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いわゆる『履歴書』ではない「自己紹介」を少しばかり。お付き合いください。NOTEへの記事投稿を始めて6ヶ月余りが経過。この間の経験も念頭に私の今の考えも書いてみます

想像の先にある「事実の発見・気付き」

1.両親が20-30才だった頃はどんな社会だったかを考えると彼ら二人がどれほど障害の多い社会で苦しんでいたのか想像できます。戦中・戦争直後の間に生まれた私と私の兄妹は、そのような経緯の行き着くところのお金の不足に苦しむ親を見ながら育ったのです。そんな生活の中「ボケッとしていて周りの人を差別してはならないぞ」との警告だと頭に叩き込んだ一件は「大正の時代、その初期に生まれて女学校で勉強ができたのが私たち世代だが、その直ぐ後の世代の人々は戦争の所為でそんな機会を失ったのだ。」という事実を母から聞かされたときのものです。おそらく小学校5・6年生の頃だったでしょう。私は自分の周りの多くの生徒が自分と違うことを感じていた時でした。

2.Saul Bellow の短篇 "Mosby's Memoirs"(私の記事 24 回目参照)の冒頭は次のとおりです。
The birds chirped away. Fweet, Fweet, Bootchee-Fweet. Doing all the things naturalist say they do. Expressing abysmal depths of aggression, which only Man--Stupid Man--heard as innocence. We feel everything is so innocent--because our wickedness is so fearful. Oh, very fearful!
小鳥たちがピゥ・ピゥ・ブッチーピゥと声を上げてどこかに飛び去りました。自然愛好家たちが良く話す情景そのものです。彼らのこの上ないまでに粗暴な攻撃・争い行動が眼前に展開していたのです。それを見たり囀りを聞いたりしている人間は、人間以外ありえないほどの間抜けであって、まあ何と無邪気で可愛いことと捉えるのです。人間は自分が残忍であればあるほど、自然の世界に起こることのことごとくを、相対的に無邪気なものと理解するのです。
=自然を前にした時の目の開き方を教えられた気がします。

3.人は自分一人で発見できる事実だけで満足してはならないのです。加えて、他者が発見した事実を学び取り続けてこそ豊な生活を作れるのです。豊な「表現」力そのものには大して価値はありません。その「表現」が他者にとって新しい事実・発見への手引きとなるが故にそれが重要になるのです。この意味で上記2件の話を持ち出しました。

20-25才頃の私の行動の多くは恥ずかしくて公開できません。

大学生時代は時間が掛かっても英語の教科書でOrganic Chemistry, Physical Chemistry, Introductory Level of Quantum Mechanics, Linear Algebra(この数学には日本語の教科書がメインでしたが。)をと意気込んだ所為で危うく留年しかけました。日本人の小説の多くはその面白さが不明で読み切れた小説があったという記憶がありません。翻訳小説には良く分らないなという気持ちを持ちながらも読む努力は続けました。そんな中原書で読めばもっと良く解るはずと考え、その取っ掛かりとしてAlan Sillitoe や James Baldwin に興味が湧いたのですが喰っていく為、さっさと卒業し会社の勤め人になり文学を完全に棚上げしました。

英語小説読書への接近/自分の中の知識の空白を放置できないという切迫感に突き動かされて

棚上げした英語の文学を棚から降ろし始めたのは60才近くの頃でした。NHK のラジオ番組「原書で読む世界の名作」のシリーズを録音して繰り返し聞きました。今すぐにでも思い出せるタイトルには「Orlando」「Robinson Crusoe」「Sons and Lovers」「Heart of Darkness」「Jane Eyre」があります。この頃に併せて読んで達成感に浸ったのは力足らずで読めずに家の隅で黄ばんでいた A Sillitoe "Ragman's Daughter", J Baldwin "Notes of a Native Son", Erwin Schrodinger "What is Life?", John Steinbeck "The Pearl" をキッチリと読み終えた時でした。"Silent Spring" や "Uncle Tom's Cabin" も感動を覚えた作品です。

「知っている世界」を外に求める――自分の知識世界に残る疑問・空白を埋めたいという意欲を幸運な就職のお陰で満たせることになりました。

入社試験は、途中入社であったこともあり募集部門の部課長前で技術資料の読み上げと和訳があって好印象を獲得。後は On the job training でした。英語力の鍛錬という点では、会社にとって不可欠な法規制の解説文を自らの化学知識を駆使して英文にしたことで英語力を認められ、入社後 2.5 年で、営業部門の技術者として2年半ほどアジアの国に駐在し英語が必要な仕事の世界への進出を果たし、その機会が到来しました。今思い返すに当初6ヶ月は挫折と生存の境で必死だったことと思います。その流れで、その後には英国を中心にフィンランド、デンマーク、スエーデン、そして米国や台湾、中国などに訪問を繰り返し、主に技術分野の人々とビジネスの会話を続けて来ました。双方が仕事だから通じ合おうと努力する訳で言葉は通じます。しかし会話は文学の世界で対象とする種類・レベルの深みとは全く別のものです。中身の重い情報・知識を得るとなるとやはり書物に依る以外ありません。とは言っても小説を相手に満足できる精度の読書をするには努力が要ったこと、これから先も不可欠であることは確かで、また辞書無しではこれから先いつになっても、筋を追えないことに変わりはないでしょう。60才以降に延べ10年以上に渡り生涯教育制度などのクラスで英文学の先生の小説読書の授業を受けました。クラス一熱心な生徒として通学しました。

体力・意欲からしてこの先当面は「読書」を続けられると思います。20年ばかり前から抱えている知識上の空白感の一つはアメリカの社会です。あれだけ所得の高い人々の社会に銃によって命を落とすとか、黒人の苦悩からの解放が遅々として進まないとか何故そうなのかをもう少し理解したいのです。これを動機に Saul Bellow の作品の読破に力を込めているのが私のこれまでの一年です。Study Notes の公開によって読書の精密性・理解の緻密度が大きく前進できたと実感しています。無償公開でも儲かっている気分です。

以上です。私の投稿記事を読んで頂ける方々には、少しとはいえ私の素性をお伝えすべきかと考えた次第です。ご高覧頂きましたこと感謝致します。