③言葉、人付き合い、ジレンマ

先日、両親が来京した。

私の両親はサッカー観戦が好きである。というより、地元のJクラブが好きなのである。下位カテゴリに属しているのにも関わらず、熱心にアウェイ観戦にまで足を運ぶ。そんな両親の影響から私もサッカー観戦をそれなりに楽しむようになった。

私が京都に下宿しているのを良いことに、年に1、2度、関西方面へのアウェイ観戦の宿泊先にと、親が来京するのだ。今回は大阪へと観戦に赴いた。

前泊して、京都は河原町でしこたま飲み、下宿先に戻ってからも飲み、翌日電車にてスタジアムへと向かう道中。特に両親と睦まじく話すこともなく、ヘッドフォンを頭にかけて、私は思案に耽ていた。

先日、こんなものを書いていたため、「言葉」というものについて考えていた。

「言葉」というものは、人類が生み出した最も偉大な発明であると、誰ぞ知らぬが言っていたことを思い出した。確かに、我々は「言葉」によって理解をし、会話をし、コミュニケーションをし、自己表現をしていく。芸術であれど作品紹介に数行ほど「言葉」が使われ、音楽もまた歌詞という「言葉」があり、映画においても勿論「言葉」が使われる。私にとって「言葉」とは表現技法の最たるものの1つであり、根源的なものであると考えている。

とはいえ、「言葉」は便利であるが、万能ではない。日本人にとって林檎は林檎でしかなく、決してappleではない。英語圏の方からしたら逆も然りである。フィンランドだったか、ノルウェーだったか、北欧のとある言語では、「静かな森の湖畔に佇む静寂」といったようなニュアンスを表す単語があるとかないとか。日本における「侘び寂び」は、日本人にしか本質的理解は得られない。他言語間においては、やはりどうしたって本質的理解に至らないことがある。

同じ言語間であれ、ニュアンスに違和感を持つことも珍しくない。「お疲れ様です」という挨拶に、「疲れていないのになあ」と思われることが分かり易いだろう。「赤色」と言われて想像する赤色は十人十色であることも想像に難くない。方言だってある。津軽弁、スピーキングは当然、リスニングは難解を極める。「言葉」そのものがそもそも一意に定まらず、意図していない形で伝わってしまうことなどザラにあるのだ。

しかし、我々は便利だからと「言葉」を使う。というより、「言葉」を用いないコミュニケーションを知り得てないとも言える。より踏み込んで話せば、喜怒哀楽という「言葉」を知っているからこそ、この事象は、この表情は、この感情は、この感覚は、という諸々に対し、これは喜び(という「言葉」)で、これが怒り(という「言葉」)で、というように認識してしまうのではないか。「言葉」によって森羅万象を認識しているからこそ、「言葉」を用いないコミュニケーションがあろうかという話である。いわゆる、記号論や構造主義に基づく考え方であると言えよう。

では、コミュニケーションにおいて「言葉」が使われることが明確化されたとして、その上での問題もまたあると私は考えられる。

例えば「怒り」という「言葉(感情)」には、多義的側面があると考えられる。字面そのままではあまり良くないイメージが先行するが、愛の鞭、優しさの裏返しとしての「怒り」もあるというのはどうだろうか。「嘘」もまた、ついて良いもの、ついては良くないもの、両極的な側面がある。

何かを伝えたい。何かを表現したい。誰しもが思うことであろう(芸術全般においても、ごく普遍的な会話においても)。その伝えたい、表現したいという欲の度合いにおいて、より伝える、より伝わり易くするべく様々な手法が用いられる。その際に先の「怒り」や「嘘」というものが用いられることはままあることだろう。殊、「怒り」と言った手法においては、ある意味で根源的感情の発露として、爆発的な、直接的な表現の手法としてあるとも考えられる。必死な人はなんだか怒っているようにも思える。

しかし、それでは意図した形で伝わらないことが多い。というか、むしろ煙たがられるのがよくあるオチであろう。内なる情熱を伝えるには、ぶつけるには、どうしたらよいものか。極めて冷静に努めては、その温度感そのままには伝えられない。如何せんとする気持ちが強ければ強いほど、伝え方に気を遣わなけばならない。伝え方に気を遣ってしまえば、如何せんとする気持ちを蔑ろにしてしまうのではないのか。その感情の純度は霞んでしまうのではないのか。私の気持ちは、その気持ちをそのままに伝えるなんて、焉んぞ、と言う話である。

より踏み込んでいえば、誰に伝えるか、伝えたいか、対象による話でもある。どうでも良い人にわざわざ「怒り」を用いることは適していないし、恋人への関係性を考慮して、重くならないよう「愛」を程々の「言葉」で伝えるというのは、本当に「愛」を伝えたことになるのか。そもそもその程度の「言葉」で語られる「愛」は、果たして本当に「愛」と呼称できる代物なのか。

ところで話が冒頭のサッカー観戦に戻るが、結果は散々だった。暑さ、ピッチの状況、勿論考慮に値する状況、環境ではあった。しかし走れない。気概が見えるプレーだったのか。ビハインドに何としても追いつこうとする姿勢はあったのか。私の愛したクラブのサッカーではない、仕様もない試合を見せられた。

とはいえ、私も私で過去の栄光に縋っているのではないのか。過去2度も国内トップカテゴリーでプレーしたクラブ像を追い求めてはいないか。そもそものクラブの起源は、サッカー貧困の地での単なる1地方クラブではなかったか。私はこのクラブに何を求めているのか。下手くそで良い、闘志溢れるプレーが見たかった。それに湧くファン・サポーターを見るのが好きだった。私も共に闘い、共に喜びを共有したかった。とはいえ、そもそもこのクラブにそれを求めるのはお門違いという話でもなかろうか。

試合終盤、私は応援をやめた。ブーイングもした。応援という「言葉」ではなく、ブーイングという「言葉」を選択した。後方のグループから、応援はやめてもブーイングは出来るんだなと言われた。その想いも尤もであろう。しかし、応援するもブーイングするも個々人の自由であろう。私は、私の矜持に基づいて応援をするし、応援をやめたし、ブーイングをした。応援する価値がないプレーだと感じたし、それでも好きでいたかったからブーイングをした。その時の伝えたい感情に基づいた「言葉」を選択した。「怒り」という手法で「愛」を伝えるのがブーイングという「言葉」であろう。

しかしまあ、「怒り」は疲れる。私はこのクラブへは、「愛」という感情で接することをやめることにした。「怒り」を抱けるほどの「愛」する理由がなくなってしまった。これからはたまに気にかける程度にしよう。「愛」したクラブとの程よい距離感は、今より遠いところにあるらしい。

とまあ、行きがけに思案していたことが都合よく、私とそのサッカークラブとの間の「人付き合い」というものにそのまま当て嵌まる格好となった。

試合終了後、私はすぐさまユニフォームを脱いだ。汗ばむことを考慮して持ってきたクリープハイプのTシャツ、持ってきてよかった。当初の目的通りでもあり、心情としても都合が良かった。

こうして私はとあるサッカークラブとの関係性に1つオチを付けた。しかし、これは単なる1事例としての側面に過ぎない。

サッカークラブであれ、好きなバンド、グループ、楽曲、文芸、芸術、はたまた恋人、友人、知り合い、知人、先生、上司、後輩、憎めない人、どうしても受け入れられない人、etc。自己対〇〇の関係性全般において、同じことが言えるのではないのだろうか。

私たちは私たち以外との関わりがある。その関わりには好きや嫌い、無関心、会いたい、食べたい、見たくもない、救われる、いっそ殺してしまいたい、そんな「言葉」たちに分類される感情、欲、願望が動機として存在する。それらの動機に従って、関係性を構築する。

その関係性は、互いの動機が上手くマッチングしていれば、良いものとなり得るだろう。いわばマリアージュである。互いの動機が、それぞれの思う通りに、パズルのピースの凹凸がピッタリと嵌まれば、適切な関係性と言えるだろう。








とか言う人が嫌いだ。

人間がパズルのピースであってたまるか。仮にそうであったとして自分とピッタリ合うピースの人間がいてたまるか。ピースという定形に嵌る人間、そんな人間には興味がないし、そもそも人間そのものを侮辱しているようで気に食わない。

「言葉」がなんだ、「感情」がなんだ、「愛」がなんだ、は映画か。いい映画なので是非観てほしい。ともかく、これまで長々と書いてきたこと、そんなこと分かりきっている。それでも誰かと話がしたい。何かを好きでいたい。私のこの気持ちは、私にしか全う出来得ない。

期待していたい。こんな話ばかりしていたい。どうでもいい話ばかりでもいい。痛い奴と思われて当然、痛くない人間なんているのかしら。女々しいと思われて当然。乙女心を忘れた方なのかしら。

人って、それでも好きになって、やっぱり嫌いになってを繰り返しながら傷付け傷付けられを繰り返す生き物でしょうに。

適切な関係性なんか、クソ喰らえ。やりたいようにやって黙らせる覚悟くらい備えてなんぼでしょう。黙らせられてしまった、何も言えなくなってしまった、なんて、素敵じゃないですか。指針か反面教師にしたらよろしいのだから。

喧嘩上等。疲れても良い、そうしたら休めばいい。頑張ったことで感じる疲労は古来から心地良いものでしょう。風呂でも入って休めばいい。ビールもあったら尚良い、くらいでいい。人と向き合うというのに、自身の持ち得る感性を使い切らないなんて、失礼に値しませんか。勿論、リスペクトは必要。気遣いばかりがリスペクトとは思わないけれど。

どうでもいい人に対してはどうでもよく接したらよろしい。疲れない程度の最低限のリスペクトで袖に振ったらよろしい。でも、私が生み出した私の感性に従って、向き合いたいと感じた人に対しては、いっそ殴り合い、刺し合い、傷付け合い、疲れては離れて、でも、お互いに悪かったね、あの時は若かった、まぁ、今度飲もうか、とか、散歩でも行こか、とか、それでも会わないという選択をしたって良い。もう「言葉」なんか超越した所で向き合っていたい。

足りない。やっぱり「言葉」じゃ足りない。満ち足りない。

それでも「言葉」を使うしかない。「言葉」で満ち足らさないといけない。

「ジレンマ」ですね。

乱文失礼。

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