②騒音寺その2
さて、①初めまして/騒音寺その1にて、騒音寺がなぜ格好良いのか。そうしたものについてつらつらと書いてきた。
では、それを受けて、私中村というフィルターを通して得られたもの、本稿ではそちらについてつらつらと書かせて頂く。
詰まるところ、私にとっての格好良いとは何なのか、という話について。
私にとっての格好良いは、やはり筋が通っているかどうかという言葉に集約できよう。世間からはダサいと罵られようロックを、ブルース29年間もやり続ける。それが全面に表れたライブ。極太の筋が通り、しかしユーモア(29歳、京大卒、ほんまなのか)もまた備わっている。蛇足でなく、備わっているのである。
それはある意味で絶対的な筋、極太の29年物のバンド哲学が揺るぎないために、そこに付随されるユーモアだとかに振り回されないとも言える。付け足されてはいるのだが、付いたところで変わらずに筋が極太のままなのだ。つまり、備わっているのである。
何かを突き詰めることは難しい。極めるということは難しい。多くの人が何か1つは自分の強み、アイデンティティとして何かしらが欲しい、と思っていたり思ってなかったりするもので、その過程でこれこそは、などとのたまうが、やはり難しい。どうしたって先人はいるし、使い古されたものが依り所というのも、違うと思いたく、寂しくも思う。果たしてアイデンティティ足り得ると呼べるのか。呼んでも良いのか。「私」はそれで満足出来るのか。満足という言葉も、何だか安っぽくも聞こえる。
満ち足りていたい。私はそう思う。
私の敬愛する作家の江國香織が、しばしば使う言葉である。満ち足りる。満ちて、足りる。字面も同じ、意味も同じ。しかし満足ではない。満ち足りる。満ちて、足りるのだ!
満ち足りた、そう思わせてくれるものが格好良いのだ。可愛さや美しさにおいても、同じことが言えるが、表現の形容において私が求めるものは、満ち足りる、それなのである。
満ち足りるためにはそれ相応の質量と純度が要求される。騒音寺で言うならば、29年物のバンド哲学がそれに該当するだろう。だから格好良く、私は満ち足らされた、と言えよう。
直感的な感覚もまた大切とも思われるが、嗜好を思考し、志向し、試行し、至高にして行く。何だか上手く言葉遊びができた満足感があるが、要するに直感を養う意味においても、それなりに客観は要るのである。
しかし、結局のところ他者に依存して出来たそれはアイデンティティと呼べるのか。このバンドカッケー、と思ってるだけではないのか。と、言われても仕方なくもある。他者そのもの、他者が発信したものが内在化して行き、「私」がそれを受けて何を記すか。その過程に、アイデンティティが生まれていくからだ。
その点に関しては、他者に依存しているとも言える。しかし、騒音寺を観に、あの磔磔に、作家の江國香織が好きで、その他諸々ままあってこんなことを書く人間は、おそらく私しかいない。
私は、私の経験した言葉しか知らない。使えない。インプットされたものでしかアウトプットは出来ない。なら、インプットの数と質を磨いていくしかない。それこそが、私にとっての極太の筋として志向するものである。勿論、今の所は、でもある。これからどのような経験をするかも分からないから。断言はできない。しかし、断言したい。志向はしている。しかし、今の所はである。歯痒いものである。ジレンマですね。
私は、私を満ち足らせてくれたものを受けて、私自身を満ち足らせたい。その過程で、誰かに満ち足りてもらえたら、それは幸甚の限りとなるだろう。
結論としてのオチは、こんなところになるだろう。乱文失礼、今後とも「満ち足りる」を追い求めるべく、邁進して参ります。