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ゆる学徒カフェに行ったら素敵で意外な出会いがあった

以前こんな記事を書いた。

僕の大好きなゆる言語学ラジオが立ち上げたカフェ、「ゆる学徒カフェ」
ゆる言語学ラジオのファンコミュニティ的な場でもあるが、そこに来る方々はいい意味で変わった人が多く、上がってくる話題のジャンルは多岐にわたる。

そんなゆる学徒カフェに、9か月ぶり、通算2度目の来訪をこの前してきた。

昨年の6月に訪れた際は開店してまだ数週間というタイミングということもあり、滞在中は常に満員。大変賑わっていた。

だが、それから9か月経つ。
土曜の晩とはいえ、特にイベントもないし、さすがに前ほどの勢いはないだろう。
下手し、個人作業している人しかおらず誰とも話せないかもしれない。

そんな事態に備え、池袋駅周辺の書店で本を買ってから店に向かった。


結果、その不安は杞憂で終わる。
前ほどの満員ではないものの、相変わらず変な人たちが集まってわいわいと面白い話をしていた。

今日はそんな変な人たちとの出会いについての話をする
わけではない。

僕が今回語りたい出会いとは、

池袋駅周辺でたまたま立ち寄った書店と、そこで購入した本について

である。


今回僕が立ち寄ったのは、『天狼院書店』という本屋である。
ゆる学徒カフェに行く道中、Googleマップで「本屋」と検索して一番近かったから寄った。

Esola池袋の2階にあり、こじんまりとしていて、入り組んで奥が見えない構造と、一見すると通常の書店とは似つかない外観をしている。
さらに、見た限り先客がおらずレジに店員さんが一人だけと、正直すこし入りづらい。

だが、勇気を出して入ってみると、そこは明らかに通常の書店とは違った。

真っ先に目に入ってきたのは、黒いブックカバーに白文字で何か書かれた本が、透明な袋に入って壁一面に掛けられている様である。

これはなんだろうか。と近づいて見てみると、どうやら『読継本』と呼ばれるものらしい。

読継本の説明については下記が詳しい。

要するに、ただ古本を売るのではなく、まだ見ぬ次の読者のために紹介文を書き、購入者はその紹介文だけを見て買いましょう。そして読んだ感想をSNSなどで共有して前の読者との縁も紡いでいきましょう。というコンセプトの商品だ。

これは面白い!どれか買ってみよう!と思い、早速壁に目をやる。

見たところ、ビジネス書だろうなと思われる紹介文が多かった。(あとで知ったことだがこの店舗はそもそもビジネス書専門店だったらしい。)
しかし、これからゆる学徒カフェに行く身としてはそんなもの買えるわけもなく、また僕自身も堀元氏にすっかり洗脳されてしまっているので、ビジネス書っぽい本の紹介文はあまり刺さらなかった。

その中で僕が面白そうだなと思ったのが、こちら。


「故郷を離れ何を思う」とはまさに高知を離れ都会に出てきた僕への言葉に見えた。
また、詩集という点も興味深かった。僕は今まで詩というものに国語の教科書以外で触れたことが無かったので、いい機会だと思いこれを購入した。


※天狼院書店 Esola池袋店は3月31日をもって閉店されたそうだ。残念。



どんな本が入っているのかと、わくわくしながら家に帰ってカバーを剥いてみる。

出てきたのはこの本だ。

畜生!してやられたぜ!

カバーを剥いて最初に感じたのは落胆だった。
石川啄木はもう100年以上前に亡くなっている。つまり、彼の作品は青空文庫で読めるというわけだ。
現にこの『一握の砂』も『悲しき玩具』も登録されている。
無料で見れるものにお金を使っちまったのか。。

だが少し考えて、そんなことで怒るのはお門違いだと気づいた。
僕はこの読継本を買わなければ、一生『一握の砂』を読むことはなかっただろうし、読継本の醍醐味は前の読者たちとのコミュニティでもあるからだ。

そういう意味では、僕は新たな読書体験を買ったわけで、その対価が千数百円なら全然大した額じゃない。

そう思い直し、1ページ目を開くと早速前の読者の痕跡が現れた。


「気になるもの、心に刺さるものに丸をつけた。丸が増えていきますように。今分からないものがいつか分かるようになりますように。」

僕も読んだら次につなげないといけないというプレッシャーをひしひしと感じる。

読み継ぐかどうかは読んでから決めよう。
そう決めて、僕はページをめくった。



石川啄木。

教科書にも載るような超有名な歌人なのに、恥ずかしながら僕は彼についてほとんど何も知らなかった。
予備知識といえば、若くして結核で亡くなったということぐらいだ。

代表作も、「一握の砂」という表題名は知っているが、中身は全く知らない。
ゆる言語学ラジオの影響で、「じっと手を見る」という一節があるのだけは知っていたが、それがどんな文脈の言葉なのかも全く知らない。

そんな状態で、あえて予備知識をこれ以上増やさず、バイアスなしで読んでみることにした。


その率直な感想は、「なんだか暗くて辛いけど、生きていこうという勇気はもらえる」である。

僕は割とこういう陰鬱としながらもどこかに熱さを感じる作品が好きで、いい本に出合ったなと、素直にそう思った。
この本を読継本に出品してくださった方には本当に感謝である。


個別の歌の感想・解釈は、多くなりすぎるのでここではとてもじゃないが載せられない。
もしかしたら今度別の記事で書くかもしれない。

が、僕の特に好きな一首だけはここで紹介したい。

或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭(ぱん)に似たりと思ひけるかな

自分の心を焼きたてのパンに例える感性すごくない?

てか、どんな心よ、それ。

あたたかくて、ふっくらしていて今が一番おいしい、みたいな感じ?
何かいいことがあったのだろうか。充実感を感じる。

前後の歌が「家に籠っている」歌なので、家で一人詩を書いていたらめちゃくちゃいいのができて、「今が全盛期だぜ!」という喜びや自信を表現したのだろう。
また、その全盛期に日の目を見ることなく家に籠っている自分を「焼きたてなのに食べられず冷めていくだけのパン」に例えた自虐も込められているように思う。

それか、外は少し焦げているけど中は真っ白くてふわふわしている、そんな心?
仕事や家族との関係が上手くいかないとかで外面はちょっと疲れてて拗れてるけど、内面はピュアピュアだということを自覚した的な?

実際どんな意味が込められているのか分からないが、僕はこの表現、すごく好きである。


ちなみに、今日4月12日は「パンの日」らしい。

この記事を書き上げたのは4月10日だが、ちょうど良いので二日寝かして投稿するとしよう。
"きじ"は寝かせた方がおいしいからね!

お後がよろしいようで。

では!

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